─ 手紙 ─
夕闇が街を包み込もうとしていた。
日暮神社に通じる長い石段の上で、はるか彼方から吹く風に袖を躍らせながら、この神社の若き神主は胸に深く息を吸い込んでいる。
そのまま目を閉じる。日暮れの静けさに耳をすませると、ねぐらに帰る鳥達の鳴き声、それに折り重なるようにやわらかな風の音が耳を擽っていった。
──やがて下の方から、石段を上ってくる足音が聞こえてきた。
閉じた瞼の裏で、その人を見おろす。石段のずっと下の方から、ひとりの少女がこちらを目指していた。若草色のセーラー服を着た、遠い日のあの少女。石段の上に立っている彼に気付いて、笑いながら手を振っている。それだけでもう目頭が熱くなる。
久しぶりに、震える声で少女を呼んでみた。
なあに、と少女が屈託ない笑顔で聞き返す。
咄嗟に、おかえり、と言った。
風が吹いて、少女の長い黒髪とスカートを靡かせた。
ただいま、は聞けなかった。耳を過ぎった本物の風にかき消されてしまったから。
──目を開けてみると、日は深く沈んでいた。昨日と今日、今日と明日、過去と未来を分かつ地平線の向こうへ。
過去は決してあの線を越えて戻ってくることはない。それでも──もし奇跡というものが存在するのなら──あの少女の声がこの耳元に甦ることを切に願った。
──ただいま、と言ってくれ。きっと、必ずこの場所で。
長く伸びた鳥居の影が、誰もいない石段の上に音もなく落ちていた。
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それを見つけたのは、つい数日前のことだった。
いつものように箒を手に境内の掃除をしていた時、御神木の根元の土を飼い猫が一生懸命に掘っているのを目撃した。このでっぷり太った怠け猫にしては珍しくやけに必死になっているので、気になってのぞき込んでみると、土の中で何かきらりと光るものが見えた。慌てて猫を押し退け、自分の手でそれを傷つけないよう慎重に周りの土をどかし、掘り起こしてみた。
それは古い文箱だった。一体どれほどの年月を土の中で過ごしたのか、表面に塗られた漆がほとんど剥げ落ちていた。剥き出しになった木の部分は虫に侵され穴が開いていた。箱の蓋に金粉をふりかけて描かれたらしい金色の花も、かろうじてそれが花の絵付けだと判じられる程度だった。これが先ほど見た光のもとだったらしい。
何か胸騒ぎがした。まるで宝物が入った玉手箱を見つけたような気分だった。
その箱を井戸のある祠に持ち込み、そっと開けてみた。
──中には手紙が入っていた。
手紙といっても封筒などはなく、ただ紙が細長く折り畳まれてあるだけだ。いにしえの時代の手紙はこんなふうに届けられていたはずだ、と思い至った。
これは、過去から届いた手紙だ。
逸る心を抑えて手紙を手に取った。宛名には、
「日暮家の皆様へ」
と細い字で書かれていた。確かに見覚えのある字だった。懐かしさに手紙を持つ手が震えた。
手紙を開いた瞬間、何かが膝の上に落ちた。それは干からびた紅葉の葉だった。つまみ上げてみるとよほど脆くなっていたらしく、ぼろぼろになって手紙の上に落ちた。
隙間風が入り込んでその粉を飛ばした。
思わず手を伸ばすが、掴み取ることはできなかった。
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この手紙を見つけてくれるのは、誰でしょう。
おじいちゃん?ママ?草太? それとも、ひょっとしてブヨかな?
ううん、日暮家の誰かが見つけてくれるとは限らない。もしかすると全然知らない人が見つけてしまうかもしれない。
だって、五百年という時は長すぎる。
この手紙があなたたちの誰かに無事届くかどうかなんて、私には見当もつかない。
それでも私はこの手紙に願を掛けます。どうか、日暮家の誰かの手によって見つけてもらえますように。
何よりもまず伝えたいことは、私が幸せに生きているということです。
高校を卒業してすぐに、塞がっていた井戸が通じて、私は迷わずこの時代を選んだ。
現代と戦国時代を秤にかける時間もなかった。チャンスは一度きりだと思ったの。今この時を逃せば、二度と五百年前には戻れないと思ったから。
私は後悔なんてしたくなかった。犬夜叉のそばにいられないのなら、きっと幸せになんてなれなかった。
彼と夫婦になって、あれから何十年も添い遂げてきました。今、あの時の決断が確かに正しかったことを実感しています。
こっちに来て何年か経って、私は一男一女のお母さんになりました。
小さい頃は二人ともやんちゃで、本当に手を焼かされました。加えて犬夜叉ときたら、二人を叱るどころか、喧嘩のやり方を教えたりする始末。子供が三人いるみたいだった。
大きくなって、二人はそれぞれの道を見つけたわ。一人は村を出て、京で武士に。もう一人はこの村で、私の跡を継いで巫女になった。
おじいちゃん、あなたにとっては、あの二人は曾孫になるのね。その子供達は、玄孫というのかしら。
ママ、あの子達の顔をママに見せてあげたかった。そしてあの子達に、ママの顔を見せてあげたかった。ママの話をすると、あの子達はとても会いたがるのよ。
もちろん、草太のことも忘れていません。ああ、そういえば、草太にも子供が生まれているかしら。もしそうなら、私にとってはその子が甥か姪になるのね。その甥か姪に生まれた子は、なんと呼ぶのかしら。
草太。おじいちゃんとママを、そして日暮神社を守っていくのは、あなたよ。
あなたはうまくやってくれているかしら。
きっとそうだって信じてる。
だってあなたは、私のたった一人の弟なんだもの。
私はもうじき死にます。
こっちに来てから、不思議なことに年をとらなくなって、私の身体は十八のあの時のまま。子供達よりも若い姿のまま、私はもう何十年も生きてきました。
けれど、寿命は確実に私を蝕んでいる。もう、長くは生きられないことが分かるの。
今日、犬夜叉と紅葉狩りに行きました。手足が痺れて歩けないから、犬夜叉の背中で負ぶわれて、きれいに色づいた紅葉を見てきました。
犬夜叉が拾ってくれた葉っぱを同封します。
きれいでしょう?
まるで赤ちゃんの時の子供達の手のようだと言って、犬夜叉は懐かしそうにそれをながめていました。
犬夜叉と祝言を挙げた夜、あの人は私にこう言ったわ。
何度離ればなれになっても、きっとまた会えると信じてた。だから井戸の前で私を待っていたんだ、って。
ママ達も知ってる通り、普段の犬夜叉は本当に気が短いの。でもあの三年間、あの人は飽きもせずに私を待っていてくれた。三年どころか何百年でも待つつもりだった、と言ってくれた。
ああ、私はこの人と巡り会うために生まれてきたんだって、心の底から思えたわ。
犬夜叉が待っていてくれるなら、私は何度でもあの人のところに帰りたい。
おじいちゃん、ママ、草太、それにブヨ。
お別れも言えずに旅立つことになりそうです。こんな私を、どうか許してね。
でも、待っていてください。
いつかきっと帰るから。どのくらい時間がかかるか、分からないけど。
長いお別れになるかもしれない。でもそれは永遠じゃない。
また会いましょう、どれだけ時間がかかったとしても。
何度生まれ変わっても、私はあなたたちの家族でいたいな。
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「日暮かごめ」
手紙はその名で締めくくられていた。
末期の力を振り絞って書かれたであろう、弱々しく震えた字。ところどころに水滴のようなものが滲んで、ただでさえ読みにくい字がますます読みづらくなっている。
これは誰の涙だろう。
書きながら「かごめ」自身が落とした涙だろうか。あとから読んだ「犬夜叉」の涙だろうか。あるいはこの手紙を掘り出した先代──つまりは祖父の落とした涙かもしれないし、そのうちの誰のものでもないのかもしれない。
この手紙を彼に託した祖父は、もういない。五百年前から届いたというこの手紙を後生大事にしたまま、最後の最後まで待ち人の帰りを待ちわびて、祖父はおととし帰らぬ人となった。
孫であり跡継ぎである彼に、死に際の祖父はこの手紙を手渡し、この日暮神社を守れと言い遺した。
かごめのことを祖父が教えてくれたのは、本当に最近のことだった。確か、祖父が体を病んで、神主を辞さなければならなくなった時だったはずだ。
日暮かごめ──祖父の姉であり、数奇な運命を生きた女性。
祖父はその姉のことを一人娘にすら語ろうとはしなかった。なのに、その息子の彼には打ち明けたのだった。娘はきっと信じてくれないだろうが、孫である彼は特別なのだと言っていた。
──確かに自分は特別なのだろう、と彼は思う。
その証拠に、かごめの話を聞いた時、目からとめどなく涙が溢れた。
初めて聞く女性の話なのに、初めてだという気がしなかった。見たこともない女性のはずなのに、脳裏には確かに彼女の姿が甦った。会ったことも触れたこともないその女性を、彼はまるで自分自身のことのように知っていた。彼女の眼差しの柔らかさ、笑顔の眩しさ、小さな手の温もり、抱き締めた時の安らぎと幸福──そのすべてが、心の底から懐かしく、そして愛おしく思えてならなかった。
──また会いましょう、どれだけ時間がかかったとしても。
いつまでも待っていると、あの時、約束した。
だから彼は、ここで彼女を待つ。何年、何十年、何百年という時を経ても待ち続ける。
いつか彼女がこの石段を上ってくるまで。いつか彼女が彼の元に帰ってくるまで。
目を閉じれば、御神木から懐かしい笑い声が聞こえてくるような気がした。
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13.10.06
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