紫陽花 | ナノ


紫陽花 (ハク千)



 油屋の庭にはたくさんの花が咲いていた。紫陽花、沈丁花、百日紅、牡丹、水仙、梅、椿。そのうちの、雨季でもないのにひときわ色濃く咲いた紫陽花の陰で、少年と少女がうずくまっている。二人は飴玉を口の中で転がしながら、額をつき合わせるようにして内緒話をし、時折忍び笑いをこぼしていた。
「……だからね、わたし、リンさんにこう言ったの。『あのお客さんは、きっとリンさんのことが気に入ったんだよ』って!」
「それで、リンはなんと言っていた?」
「『うるせー、ガキは黙ってろ!』だって。顔が真っ赤だったんだよ!あやしいよねー」
 千尋はくすくすと口元を手で押さえながら笑った。ハクが彼女の顔をのぞき込みながら目を細めた。
「あのお客様は、名のある神社を護る稲荷神だ。もし本当にリンを気に入ったのなら、ひょっとするとトンネルの向こうへ連れ出してくれるかもしれないね。リンのことを」
「へえー!そんなことも出来るんだ」
 千尋が目を丸めると、ハクはおかしそうに笑った。
「出来るよ。この油屋で神に見初められたなら、あとは自由だ。神の妻になって、ここを出て行ける」
「ふうん……」
 千尋はハクをじっと見つめた。やけに熱心な眼差しに、ハクは落ち着かなくなったように視線をさまよわせた。
「……えーと、千尋?どうしてそんなに私ばかり見ているのかな?」
 飴玉を口の中でころころと音を立てて転がしながら、千尋は彼を指さした。
「ハクだって、神様じゃない」
「……え?」
「もしもハクに見初められたら、わたしもここから出られるの?」
 ハクはごくりと飴玉を飲み込んだ。それがどうも喉に詰まったらしく、激しくせき込み始めた。
「だ、大丈夫?」
 千尋に背中をさすられながら、彼は呼吸を落ち着ける。
「大丈夫。少し驚いただけだよ」
 その表情を窺おうとして、逃げるように視線を逸らされ、千尋はきょとんとした。横を向くハクの頬がほんのり赤く染まっていた。
「ハク?もしかして、暑いの?」
 心配そうに聞かれて、ハクは首を横に振った。切り揃えられた髪が肩の上で揺れる。はずみで紫陽花の花びらが彼の肩に降り落ちた。
「だって、顔が赤いよ?」
 ハクは額に手をあてて長い溜息をついた。
「それは、そなたがあんなことを言うから……」
「えっ?」
 千尋は耳をすませた。ただでさえ物静かな喋り方をする人なのに、今やハクの声はそよ風に消え入ってしまうほどに小さかった。
「……千尋は、ここから出たいんだね?」
「うん」
「ご両親のことが、恋しい?」
「……うん。ちょっとだけ」
 ハクは寂しげな顔をして千尋の頭を撫でた。豚小屋にいる両親を思っているのか、千尋の目は遙か遠く、ハクを見てはいなかった。口の中で飴の味が薄れていく。
「大丈夫だよ」
 優しい彼の声が重たげな紫陽花の花を震わせた。千尋はゆっくりと時間をかけて、意識をその場所へと引っ張り戻してきた。ハクは力強く千尋の手を握った。まるで魔法にかけられたかのように、気持ちがすっと軽くなったのを千尋は感じる。
「ハクがそう言ってくれるなら、きっと大丈夫ね」
 千尋は明るい笑顔を見せた。その笑顔が眩しそうに、ハクはまた深い緑色の目を細める。
「機会を待つんだよ。きっとトンネルの外に帰れるから」
「うん。ハクがわたしをお嫁さんにしてくれるんでしょ?」
 にこにこ笑いながら千尋が言った。ハクがまたもやりにくそうに目を逸らした。
「えーと……千尋。私がそなたを妻にせずとも、帰れる方法はあるよ」
「でも、そうすればハクも一緒にここから出られるよ」
 名案を思い付いたことが余程嬉しいのか、千尋は頬を上気させていた。
「一緒に帰ろうよ。わたし、ハクのことが好きだよ」
 ハクははっと息をのんだ。そしてすぐに、首を横に振った。
「私のことはいい。千尋は、千尋のことだけを考えていればいいんだ」
「どうして?」
 不思議そうにする千尋に、ハクはまるで子供をあやすような口調で告げた。
「よくお聞き。この世界の何にも、気をとめてはいけないよ。そなたはいずれ元の世界に帰るのだから、ここに思いを残すことはない」
 千尋は面食らった顔をした。
「ハクを好きって思うことも、だめなの?」
 ハクは答えなかった。ただ静かに、いつものあの優しい微笑みを浮かべるのだった。その微笑みが、言葉よりも遙かに多くのことを語っていた。けれど千尋にはまだ、それを推し量ることは難しかった。
 中からリンの呼ぶ声が聞こえた。休憩時間が終わったらしい。
「わたし、行くね」
 煮え切らないような思いがしながらも、千尋は立ち上がった。咄嗟にハクがその手首を掴んだ。
「千尋……」
 ハクがまっすぐに千尋を見上げていた。二人は永遠のように見つめ合った。 辺りは花と風の混じった匂いがしていた。
「ごめんね。私はそなたを自由にしてやれない」
 千尋は俯いた。ハクがそっと手を離した。
 梅雨でもないのに咲く紫陽花。雨が降れば現れる海。水の上を走る電車。緑色の目をした美しい少年。そのどれにも心をとめてはいけないと、彼は言う。いつかトンネルの向こうに帰る日が来たら、千尋はその全てを忘れなければいけない。
 それでも、少女は少年を思った。
「じゃあ、わたしがハクを自由にしてあげたいーー」
 千尋は振り返った。ハクの姿は、もう見当たらなかった。誰もいない紫陽花の陰で、幻のように紋白蝶が漂っていた。





end.
×