ブルーベルの花



 長い休みが明けて、学生たちの日常が戻ってきた。
 夏の疲れがまだ身体に残るこの時期、蒸し暑い教室での授業は、正直気だるい以外の何物でもない。しばらく袖を通していなかった制服はやけに締め付けが気になって暑苦しく感じられるし、教科書が詰まった鞄は指や肩に食い込むほど重たい。夏休み中の自由な服装が心の底から恋しくなる。狭い教室には冷房や扇風機のような気の利いた設備はなく、暑さを少しでも和らげるために生徒たちは、ほてる顔に向けて下敷きや手団扇をパタパタと扇いでいる。真夏と違い窓を開ければかすかな風が入ってはくるものの、その恩恵を受けることができるのは、窓際の席に座るごく数人の生徒たちだけだ。
 残念ながら、天道あかねはその幸運な生徒の一人ではなかった。
 こざっぱりとしたショートカットのおかげで、細い首筋が髪の長い女子よりも随分と涼しげではあるものの、伝い落ちる汗を止めることはできなかった。爽やかなスカイブルーの制服も、今は暑苦しくてたまらない。
 白いハンカチで、あかねは汗をかいた首元をそっと押さえた。暑いときは頸動脈を冷やすといいらしい。休み時間に水でハンカチを濡らそう、と思う。
 後ろから、視線を感じる。
「んー…それじゃあ天道さん、次のところ訳してみて……」
 教壇の上にだらしなく顎をのせて、子ども姿のひな子先生が気だるそうにあかねを指名した。暑さで完全にやられていて、八宝五円殺で誰かの闘気を吸ったほうが良さそうなほどだ。
 水が飲みたい。でも、授業中だから我慢しないと。
「ーージョンはメアリーに言いました。『もしあの丘を訪れたら、僕はまた、きみにブルーベルの花を摘んできてあげるよ』」
 教科書の挿絵には、ゆるやかな丘陵にたくさんの青い花が咲いていて、その中にかがみ込んで花を摘む、金髪碧眼の美しい青年が描かれていた。
「ところが、メアリーは首を振りました。『花なんていりません。あなたが無事に帰ってきてさえくれれば、私は幸せになれるから』」
 ロマンチックな話、と頭の片隅で思う。物語の結末は、隣国との戦争から帰ったジョンが戦争中に病気で亡くなったメアリーの墓を訪れ、涙ながらにブルーベルの花を添える、という悲劇的なものだけれど。
 後ろから、視線を感じる。
「……天道さん、ありがとう。とってもよくできました。……えーと、今のところで出てきた『仮定法』と『as long as』の構文は重要ですからねー。ちゃんと復習しておいてくださーい」
 ひな子先生がチョークを手に黒板に向いた時、少しめまいがした。ひな子先生の後ろ姿がぼうっと霞んで、椅子に座ろうとして、足がふらついた。
「ーーあかねっ」
 身体が大きくぐらついたけれど、力強い手に肩を支えられた。振り返ってみると、彼女の許婚が眉間に皺を寄せていた。
「この、バカっ。具合悪いのに、無理してんじゃねーよ!」
 いつもならむかつくのに、今日の「バカ」は、不思議と嫌みじゃなかった。むしろ優しくさえ聞こえて、彼のそれが聞けて、なぜかとても嬉しかった。
「……バカじゃないもん。ちょっと、熱中症っぽくなっちゃっただけ」
「なにい!?」
 うるさい声に、板書の手を止めたひな子先生が不機嫌な顔で振り返った。
「こらっ早乙女くん!授業中は静かに……」
「ばっきゃろー、熱中症になるまで我慢しやがって!」
 乱馬は有無を言わさずにあかねを抱き上げた。ひな子先生とクラス中が度肝を抜かれるなか、机から机へと重力を感じさせない身軽さで飛び移り、戸のところで思い出したように振り返る。
「あっーーすいません。許婚が具合悪そうなんで、保健室に連れて行きます!」
 軽やかに去っていった二人を、生徒たちはあっけにとられて見送った。


「熱中症ね」
 案の定、保健医は断定した。
「すぐに身体を冷やした方がいいわ。凍らせたタオルと、あと、冷たいお水も持ってきてあげるから。……えーっと、早乙女くん、ちょっとの間天道さんのことお願いできる?」
「いいですよ。俺が看てますから、行ってきてください」
 慌ただしく保健医が出て行くと、中はしんと静まりかえった。
「……ぶわーか」
 ベッドに横になったあかねを見下ろして、彼はつぶやいた。
「大丈夫か?」
「……わかんない。目の前にブルーベルのお花畑が見えるの」
 乱馬が怪訝な顔をすると、思わず笑いがこみ上げた。
「うそよ。ちょっとぼうっとするだけ」
「からかったのかよ!ったく、おめーは人が心配してやってるってのに……」
 嬉しくて、にやにやしてしまう。
「今日の乱馬、いつもより随分と優しいのね」
「ああ!?」
「愛を感じるもん。言うこと、成すこと全部に」
「なっ、何を言いやがるかと思えばーー!」
「愛されてるんだなーって思えて、幸せ」
 にこりと笑ってみせる。乱馬は真っ赤な顔をして、丸椅子にどっかりと座り込んだ。
「……あかね。おめー、暑さで脳みそが溶けてるんじゃねえか?」
「そうなのかなー…」
 眠気を感じて、目蓋をこする。洗い立てのシーツが、肌に心地よかった。
「今日は、なんだかずっと乱馬に見られてるような気がしたの。それで、あたしドキドキしてた。……やっぱり、暑さのせいかなあ」
 乱馬は何も言わなかった。ただ、もう寝ろと言うように、彼女の目を大きな手で覆った。
「……ねえ、乱馬」
「何だよ?」
「あたしが起きるまで、そばにいてくれる?」
 ふん、と彼が鼻を鳴らす。
「当たり前だろ」
「ほんとに?」
「なんだよ。俺のことが信じられねえってのか?」
「そんなんじゃないけど」
 乱馬はあかねの目から手をどけた。その手は上にずれて、彼女の少し汗ばんだ額を撫でた。
「心配すんなって。俺はずっとここにいるぜ」
「ほんと?ーーあのお話のジョンみたいに、突然いなくなったりしない?」
「なんだ、そりゃ」
「あたし、ブルーベルの花なんていらないからね?そんなものもらったって、ちっとも嬉しくないんだからね?」
「あー、わかった、わかった」
「約束よ。ーーあたしのこと、ぜったい、ひとりにしないで」
「しねーよ。花摘みなんかしてるより、俺はあかねのそばにいる方が楽しいもん」
 



【乱あ乱祭3】 寄稿作品


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