花嫁御寮  8:跡地



 三界高校を訪れるのは、卒業以来のことだった。
 久し振りにその校門をくぐってみると、いいようもない懐かしさが胸にこみ上げてくる。
 砂埃の舞うグラウンドには、ひとつだけ取り残されたサッカーボール。校庭の花壇には色鮮やかなパンジーが咲き、見上げる校舎の窓に、赤い夕日が反射している。
 ここは何も変わってはいなかった。
 ただひとつ、永遠に失われたものがあるだけで。


「ああ……。取り壊されてしまったんですね」
 彼女の肩から顔をのぞかせて、六文がどこか寂しげに呟いた。
 目の前に広がる更地は、かつて彼が死神の主と共に暮らしていたクラブ棟があった場所だった。
「私達が卒業した次の年に、新築することになったんだって。それで取り壊されたんだけど、予算が足りなくて、結局このまま」
 桜は黒猫の頭を優しく撫でた。その手が、かすかに震えていた。
「何も残らなかったみたい。ここには」
「桜さま……」
「大丈夫、六文ちゃん。私は平気だよ。帰ってくるわけないって、分かってるもの」
 頬に降りかかる髪を耳にかける彼女の指に、プラチナの婚約指輪が輝いていた。幸せの絶頂にいるはずなのに、まるで悲しみのどん底で耐えるかのような寂しげな微笑みが、ひどく不釣り合いだった。

 思い出の墓場を見下ろしながら、桜は脳裏に最後に見た彼の姿を描き出していた。
 いつものようにクラブ棟の戸を開けると、りんねは壁に背中をつけ、片膝を立てた格好で座っていた。天井を見つめ、作りかけの造花をもてあそびながら、ぼんやりと考えごとにふける彼。
「真宮桜、ひとつ聞いてもいいか?」
 しばらく畳の上で正座して待っていた桜に、ようやく彼が発した言葉がそれだった。
「なに?」
「すごくくだらない質問だから、真剣に考えることはない。思いついたままを教えてくれればいいから」
「分かったよ」
 彼は視線を桜に向けた。
「もしもの話だ。──もし俺が、お前の知る『六道りんね』ではなくなったとしたら、真宮桜、お前はどうする?」
「どうする、って?」
「思いついたままを言ってくれればいい。もし俺が、突然今までの俺でなくなって、──たとえば180度人が変わってしまったとする。その時、お前は失望するだろうか?俺のことを、軽蔑するだろうか?」
 クラブ棟の外でカナカナ、とひぐらしが鳴いていたのを桜は憶えている。あれはまだ、残暑の厳しい季節だった。
 少し考えてから、桜は答えた。
「分からない。だってそんなこと、予想もつかないから」
「──そうか」
「六道くんの人が変わる様子なんて、想像できない。だって、六道くんは、優しい死神さんだもん」
 この答えは思いのほか、彼の胸に響き、その心の琴線をかき鳴らしたようだった。りんねの目に光が過ぎり、彼女のほうへ身を乗り出しかけるが、すぐにその高揚感は彼の表情からこぼれ落ちていった。
「だが、悪い死神もいることを知っているだろう。現に、俺のおやじはその親玉だ。悪い死神の息子が悪に染まらない保証なんて、どこにもない」
「それでも、六道くんは、絶対に悪い死神になんてならないよ」
 彼はかすかに口を開けたまま桜を見ていた。そう言い切る彼女に、何も言い返せなかったのだろう。
「私は信じてる。たとえ、みんなが六道くんのことを『悪い死神』と呼んでも。私は六道くんの味方だよ。六道くんのことを、『優しい死神』だって、呼び続けるよ」
 思いついたまま言ってくれと言われたから、そう答えた。ただ本当に心の底からそう思うだけで、理由なんてとくになかった。
「そうか。──ありがとう」
 少ししてから彼がそう言った。嬉しさと寂しさの混ざったような、不思議な顔をして。


「信じてる」
 そう言ってくれた真宮桜を、結果的には裏切ったことになるだろうか。
 できることなら、彼女の言う「優しい死神」でい続けたかった。
 悪い死神になんてなりたくなかった。そのふりさえも──。
「社長」
 白い狐の着ぐるみを着た秘書が、物思いにふける彼の目の前にどさりと山積みの書類を置いた。思考を中断された彼は、ため息と共に椅子に深く座り直し、書類を見下ろす。
「今日の分は、これだけか」
「いいえ、まだ夜の部が戻っていませんから」
「そうか。ご苦労」
 書類に目を通し始めた彼をしばらく見ていた秘書が、声を落として聞いた。
「……なあ、おい。家に帰らなくていいのかよ」
 突然の口調の変化にも動じることなく、りんねは返す。
「いいんだ。あんな家、帰っても息が詰まるだけだから」
「そうかもしんねーけど、もう何ヶ月になる?」
 秘書はカレンダーをめくり、苦々しい声を出した。
「三ヶ月だぜ。お前が家に帰らなくなってから」
「仕方がないだろう。仕事で忙しい」
「仕事仕事って、よく言うよ。本当の理由はそうじゃねえくせに──」
 若き社長は不躾な秘書を見上げ、困ったような笑みを浮かべた。
 秘書が着ぐるみの頭をはずす。中から気遣わしげな表情をした、白髪の青年が現れた。
「奥さん、お前のこと待ってるぜ」
「……帰らない」
「ったく、薄情なやつ。また『グリム』に小言食らっても知らねーぞ」
 彼は深いため息をついた。
「グリム……か」
「あいつはマジで厄介だからな。たまには帰ってご機嫌伺いしてきた方がいいぜ、りんね」
 りんねは祈るように手を合わせた。



To be continued

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