逢魔が刻真夏のこの時間は、なにか不思議なことが起こりそうな予感がする。 「千尋、はやく行こうよお」 しきりにうしろを振り返り、振り返り、なにかの気配を探るような目をする千尋の手を、業を煮やした親友の絵里がひっぱるようにして歩き出した。 「祥吾たち、もう待ってるってば!」 祥吾は、十六年間の人生で初めてできた、千尋の彼氏だ。絵里とおなじく小学校のときから一緒で、気心が知れた仲。家も近所で、親同士の仲もいい。告白されたのは夏休み入りのついこの間のことで、つまりはこの花火大会が初めてのデートだった。 待ち合わせの場所には絵里の彼氏、健司もいる。最初は二組で出店をまわり、花火が始まったらそれぞれで行動することになっていた。 花火が始まれば、あとは二人きり。 家で母親に浴衣を着付けしてもらっているときは、そのことを思って顔が熱くなった。何を話せば間がもつのか、わからない。緊張しすぎておかしなことを口走ってしまいそうだった。 けれど、いざ会場に来てみると、そんな煩悩は消え去ってしまった。 「後ろに何かいる」 そんな気がしてならず、どうしても振り返らずにはいられない。 絵里に引きずられるようにして歩くうちに、前の方に待ち合わせの神社の鳥居が見えてきた。 「千尋」 「……」 「千尋ってば」 ぼんやりとした顔で鳥居を見ていた千尋は、はっとした。振り向いた絵里がにやにやしている。 「何?」 「初デートだから、まあ、最終段階までいけとは言わないけど」 「……え?」 絵里の笑みがますます深まった。 「キスくらいは、やっちゃいなよ」 「えっ!?」 「なにが『えっ!?』よ。いまどき、キスくらいでそんな過剰反応しないって」 千尋は思わず絵里の手をふりほどいていた。 「わ、わたし、キスなんて!」 「もー、千尋って純粋すぎ!」 あきれたように絵里が叫ぶ。 「キスくらいなんてことないでしょー!私なんて、もう何回も健司の家に泊まってるよ?」 千尋は赤面した。絵里の言うところの「最終段階」の意味がようやく分かった。 「無理だよ、わたしには……」 「でも、祥吾は待ってると思うよ?」 「でも、祥吾はただの幼なじみでーー」 絵里が眉をひそめた。しまった、と千尋は思った。 「……祥吾のこと、そういう目でしか見れない?」 絵里の声は厳しくはないものの、有無をいわせぬ響きがあった。後ろめたくなって、千尋は俯いた。 「……努力は、するつもり」 「……」 「いつか、ちゃんと好きになれると思う」 「……」 「祥吾も、分かってくれたもん」 おそるおそる顔を上げる。 絵里は、いなかった。 ついさっきまでそこにいたはずなのに。 うだるように暑い真夏の夕暮れ。ひとり残された千尋は、突如として不安に見舞われる。 あたりを見回して、大人びた紺色に金魚柄の浴衣姿をさがす。けれど、出店と出店の間の小路を行く人のなかに、その姿は見当たらない。 その人たちを見て、千尋はぎょっとした。 全員が、なぜか不思議なお面をつけている。 狐だったり、猫だったり、お面の種類はさまざまだ。 さっきまでは、こんな人たちはいなかったーー。 千尋は後ずさった。 中指から下げた水風船が、たぷんと揺れた。 「迷い込んでしまったね」 背後で誰かがそう言った。足が竦んで、振り返ることもできない。 「迷い込んだって、ど……どこに?」 おびえた声で聞く千尋に、声の主が笑う気配がした。 「どこに?さあ、どこだろうね。ーーやはり、忘れてしまったか」 「何を?」 「何でもないよ。今のは聞き流しておくれ」 誰かの手が肩に乗った。氷のように冷たい手だった。 「冷たい」 思わず肩をすくめると、 「私はひとではないからね」 彼はふふ、と千尋の耳元で笑った。 「少し、一緒に歩こうか」 千尋は首を横に振った。心がざわざわして落ち着かなかった。 「じゃあ、飛んでみようか」 え、と千尋が驚く間もなく、身体がふわりと宙を浮いた。 「下を見ない方がいいよ。怖いから」 その忠告は一足遅く、千尋の口から悲鳴があがった。 お面をつけたもののけ達が、身体をのばして千尋を捕まえようとしていたのだ。 「やだ、やだ!」 「落ち着いて、千尋」 伸びてくる手を必死で振り払っていると、輪ゴムが切れて、水風船が落ちた。彼の手が千尋の目を覆った瞬間、下の方でそれがはじける音がした。 「……日が落ちた」 彼がささやいた。 「もう大丈夫。ーーほら、花火が始まったよ」 彼の手が離れると、目前に大きな打ち上げ花火が広がった。 足はすでに地に着いており、あたりを見ると、お面の異形たちはどこにもいない。近くの焼きそば屋からいい匂いがしている。花火に歓声をあげる人達の賑わいの中で、困惑した千尋は後ろを振り返った。 彼に強く手を握られた。それから、唇にひんやりとした感触が押し当てられた。 「……あなた、誰?」 美しい青年は、首を傾け、もう一度同じことをした。千尋は抗わなかった。 「そなたに恋いこがれてやまない、魔物だよ」 思い詰めたようなささやきを残して、彼は消えた。 花火の音がやむまで、千尋はいつまでも唇に触れていた。 |