remnant act.12 時計の針が午前零時をまわった。 「おとうさん、早乙女のおじさま」 散らかり放題の食卓を片付けながら、あかねは畳の上でいびきをかいている父親とパンダを見やる。なびきは早々に自分の部屋に引き上げてしまっていたので、後片づけの女手はひとつだけだ。 「ねえ。そんなところで寝てたら、風邪ひくわよ」 しかし、久々の深酒で酔いに酔ってしまったらしい二人は、すっかり夢の中に浸っていた。あかねの声にも意味のない寝言を返すだけで、聞いている様子はみじんも感じられなかった。 「しょうがないなあ……。乱馬、障子閉めてくれる?」 溜息をつきながらあかねが言うと、机に頬杖をついて彼女を見ていた乱馬は黙って立ち上がった。夜風が冷たいので、酔っ払い達の身体が冷えてはいけない。そのうえ二人とも、冷たいビールを浴びるほど飲んだ後なのだから。 言われたとおりに障子を閉めると、乱馬がくるりとあかねを振り返った。 「……東風先生、今日はうちに泊まるのか?」 あかねは割り箸をかき集めながら、仏壇の間にいるはずの東風の気配を探した。そうしなければ気配を感じられないからだ。彼は本当に、気配を消すことに長けている。 「おとうさんが、そうしなさいって言ってた」 トレイに小皿や割り箸を乗せられるだけ乗せて、あかねは立ち上がった。 「そうだな。もう、夜も遅いし」 いつの間にか手にしていた缶ビールをぐいと呷る乱馬を、あかねは見咎めた。 「あっ、だめじゃない!高校生が飲酒なんて」 「いいだろー、別に。こんなちょこっとだぜ?」 あかねが止めるのもきかずに、乱馬は喉を鳴らしてビールの残りを飲み干した。わずかに眉根を寄せたところを見るに、あまり美味しいものではなかったのだろう。 「あーあ……飲んじゃった」 呆れ顔のあかねを見て、彼は肩を竦めた。 「東風先生は、これくらい余裕で飲んでたな」 「先生は大人だもん。そりゃ、お酒だって飲むわよ」 そうかよ、と乱馬は少し面白くなさそうに言う。 「はやく、大人になりてえな」 空き缶をつぶしながら、乱馬はぽつりと呟いた。 「はやく、大人になりてえな」 その台詞に、廊下を歩いていた東風の足が止まった。 「俺、先生と違ってガキだからさ」 乱馬の声は、一言発するごとに小さくなっていく。 「自分の感情ばっかりで、おまえのこと、全然大事にしてやれてないよな。ーー本当は、もっと優しくしてやりたいって思ってんのに」 東風は居間をそっと覗いた。乱馬とあかねが食い入るように互いを見つめていた。 「ごめんな、優しくなれなくて」 「何言ってんの……」 「いつまで経っても、こんなガキのままで、ごめん」 乱馬の手があかねの頭の上に乗せられた。膝を屈め、目線の高さを合わせながら、彼はふっと笑う。 「おまえ、先生のこと、好きだろ」 「……!」 あかねが息を飲んだ。 「先生のこと見てたおまえを、俺だって見てたんだぜ。そんくらいわかるって」 乱馬はあかねの白い頬にそっと手を添えた。あかねの唇が小刻みに震え出す。 「また、好きになったんだろ?」 「……」 「あかね。正直に言えよな。嘘つかれたほうが、よっぽど傷つくからな」 あかねの緊張をほぐすためか、乱馬の声音は穏やかだった。その声の調子から、彼がどれほどの思いを堪えてその問いかけを口にしているのかを知り、東風は胸が突かれる思いがした。 「好き」 溢れそうになる涙を堪えながら、あかねは告げた。 「先生のことが、好き」 「……うん」 余程深く傷ついただろうに、乱馬はそれを表情に出すまいとぎこちなく微笑みながら、頷いた。 「でもーー」 あかねは強くかぶりを振る。 「あたし、先生とは一緒になれない」 やや俯き加減の乱馬が、虚をつかれた顔をした。 「俺を捨てるんじゃねえのか」 「そんなこと、しない」 「先生のところに行くんじゃねえのか」 「ーー行かない」 「だって、おまえは……!」 必死の思いで食ってかかる乱馬の声が掠れた。 「俺よりも、先生が好きなんだろ?」 「ううんーー」 あかねは泣き笑いのような顔をした。 「あたし、乱馬のほうが好き」 石のように固まる乱馬の胸に、あかねは頬を押し当てた。大きく深呼吸をして、それから腰に手を回す。 「子供っぽくて、優しくなくて、乱暴でーーあたしにありのままの感情をぶつけてくるあんたが、あたしは世界中の誰よりも好きなの!」 乱馬は大きく目を見開いた。そして、あかねの言葉を頭の中で反芻させるかのように、目を閉じた。 「……いいのか、本当に俺で」 あかねは頷いた。何度も、何度も。 「あたしの許婚は、乱馬だけよ」 それ以上聞いていることが耐えられなくて、東風は天道家を飛び出した。 作務衣に線香の匂いが染み着いて消えない。 どのくらいの間、あの仏壇の間にいただろう。 ずっと、遺影を見ていた。 飽きることなく見ていた。 あのかすみの笑顔が、月のように心の闇を照らし出してくれたらいいのに。 枯れた鉢植えは、かすみ草は、どれだけ水を与えてやっても元には戻らない。 「ーーか、」 雨雲に隠れた月を彼はふり仰いだ。ぽつり、ぽつりと雨が降り出していた。眼鏡のレンズに水滴がかかり、目に見える景色を滲ませた。 「かすみさん……!」 なぜ、こんなにも遠くへ行ってしまったんだ。 誰にも告げずに。何の前触れもなく。 別れの挨拶すらできなかった。 変わらない明日が来ると信じて疑わなかった。 あの人はいつまでも鉢植えに水をやりに来てくれるのだと思っていた。だから、鉢植えが枯れることは絶対にないと思っていた。 でも本当は、確かなものなど何一つなかった。 To be continued back |