─ 夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて ─



 どこからか、日暮れの匂いがした。
 目を閉じたまま、犬夜叉は鼻から大きく息を吸い込んだ。五感を研ぎ澄ませてみれば、遠いところからゆっくりと黄昏がやってくるのが分かった。西に傾く太陽の温かさ。風が運ぶ夜気の冷たさ。ねぐらを目指す鳥の羽ばたきに、耳がぴくりと反応する。夕刻にとじる花の芳香。囲炉裏で煮える夕餉の音。ひとつ、またひとつと気付くうちに、黄昏はだんだん彼の方へと近付いてきた。そして、その気配だけを残して、すべては少しずつ薄れていった。
 犬夜叉は夕暮れ時の赤い天に両手をかざした。落日と同じ速さで、長い爪が縮んでいく。草の上でうねる髪はしだいに暗く染まっていく。物の怪から人へ変わる瞬間、鳥の飛び立つ音も、空の色も、花の匂いも、風の味も、太陽とともに地平の底へ深く沈んでいく。
 朔の日の夕暮れはいつも彼の胸を締め付ける。当たり前に感じていたものが遠ざかっていく切なさ。何もかもが薄く、儚く、虚しい。人間のこの耳は、遠くの音を聴くことはできない。鼻はすぐそばに咲く花の匂いすらも嗅ぎ取ることはできない。
 こんな有様では到底、彼女を見つけることなどできない。
 地平線の先のそのまたずっと先、気が遠くなるほど遠い、時の彼方にいる彼女。
 ーーかごめ。
 声もなく、静かにその名を呼ぶ。
 今、かごめは何をしているだろう。五百年先の、この場所で。
 すこしでも自分のことを思ってくれているだろうか。やけにけむたいあの世界で。あるいは、ともに過ごした日々などとうに忘れてしまっただろうか。振り返る暇もないほど忙しい毎日にかき消されて。
 犬夜叉はのろのろと立ち上がった。億劫ながらも顔を上げると、黒髪が風にゆるやかに靡いた。風の中にかごめの声が聞けたらいいのに。どんなに耳を澄ませても、聞こえてくるのは風鳴りばかりだった。
 拳を強く握り締める。
 そのまま、無我夢中で走り出した。
 沈んでいく太陽をひたすらに追いかけた。
 何度もよろめき、躓きそうになりながら。
「教えてくれーー」
 息を切らしながら、犬夜叉は天を仰いだ。脆く弱い人の身体は、少しの距離を走っただけで既に音を上げていた。
「教えてくれ。あと、どれだけ待てばいい……」
 彼は片膝をついた。額に浮かんだ汗を拳で拭いながら、もどかしさのあまり唇を噛んだ。完全な妖怪だったなら、どこまでも走り続けることができたのに。地平線の果てまでも。五百年の先までも。休むことなく、ただひたすらに。
 非力な人間の身で、いったい何ができるだろう。
 それを教えてくれたかごめは、もういない。


「人間でいるのって、犬夜叉が思ってるほど不便じゃないわよ」
 そう言って、かごめは慈しむような微笑みを浮かべた。
「もちろん、私は半妖のあんたみたいに鼻が利くわけでもないし、遠くの音を聴くこともできない。強くもないから、長く生きることだってできないわ。
 でも、だから私たちは、すぐそばにあるものを、今過ごしてる時間を大切にしようって思えるの」
 人間が感じることのできる世界は狭い。半妖の犬夜叉に比べて、かごめが五感で感じる世界はひょっとすると十分の一ほども小さいかもしれない。そして、あるいは彼女に残された寿命も。
 かごめは犬夜叉に教えた。それは決して不幸なことではないと。
 見知る世界が狭く、生きる時間が短い。そのぶん、嬉しいときは十倍も嬉しく感じられ、美しいものは十倍も美しく見えるーー。
 それが人間なのだとかごめは言った。
 犬夜叉はそんな彼女を、袖の中に大事に包み込むようにして抱き締めた。
「お前の口から、もう一度その言葉を聞きたかったんだ」
 かごめは笑った。
 じゃあ何度でも言ってあげる、と茶目っ気たっぷりに囁いた。
 犬夜叉も笑った。
 夢だと分かっていても、逢えて心の底から嬉しかった。





end.
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