黄泉比良坂 | ナノ

黄泉比良坂



 雨が降っていた。涙のようなしずくに打たれて、道端の紫陽花が美しく儚く咲いていた。いつの日かに降った遣らずの雨のように、その雨は去りゆく彼女を引き留めるかのようだった。
 桜は濡れた舗道を走り続けた。通行人を、電柱を、車をすり抜けて、ひたすらに先を急いだ。彼から貰った黄泉の羽織は、二人が暮らしていた部屋に置いてきた。もう二度とあれに袖を通すことはないだろう。
 雨にけぶる視界の中で、近付いてくる車のライトが魔物の目のように見えた。それは目の前まで迫ってきたかと思うと、すぐに彼女を通り越していった。車が体を通り抜けていく一瞬、桜は目を閉じて、すぐに開けた。何度轢かれたところで痛くも痒くもないのだ。自分は魂だけで動き回る実体のない存在なのだから。
 早く、と彼女は自分をせき立てた。
 出来るだけ早く遠ざからなければ、りんねはきっと彼女を見つけてしまうだろう。
 そして連れ戻されてしまう。背徳にみちた悲しいほど幸せな生活に。
 彼の情に溺れきって、現実から逃げ回る日々。そんな時間が永遠に続くはずがない。いつかは終わりがやってくる。この世のどこにも、桜の心が休まる逃げ場はなかった。
 もう逃げ出してしまいたかった。こんな不確実な生活から。そして、痛ましいほど思いを寄せてくれる、彼から。


「ご自分の立場をお忘れか」
 見知らぬ死神は厳しい眼差しで彼を見据えた。鋭い鎌の刃が彼の鼻先に突きつけられていた。それでも身じろぎひとつせず、顔色すら変えず、りんねは静かに来訪者を見つめ返していた。
「あなたは死神。霊を正しい場所へ導かなければいけない。それを、個人的な感情で惑わせてどうする?」
 りんねはしんと静まり返った部屋の中で雨の音を聞いた。雨は嫌いだ。置き去りにされた黄泉の羽織を強く抱き締める。
「彼女をどこに連れて行った?」
「自分の足で出て行ったのです。知るわけがない」
 死神は大儀そうに鎌を肩に担ぎ、後ろを向いた。もう言うことはないようだった。
「行くべき所に行ったのではないですか?」


 あの世とこの世の境界は、ほのかに暗く薄ら寒かった。
 なだらかな坂が緩やかに続く黄泉比良坂。天辺にある石造りのアーチを目指して、無数の幽霊がその坂をのぼっていく。
 桜も彼らに倣って足を踏み出した。坂の至る所に土まみれの人骨が散らばっていた。それらを避けて歩くと、今度は季節はずれの曼珠沙華が血よりも赤く咲いていた。雨が降っているのに、所々に火の玉が浮かんでいた。その火に、群がって咲く夾竹桃が燃えていた。煙に混ざって花の毒がまき散らされている。
 生きている人間と自分達の境目はここなのだ。泣きそうになりながら桜は思う。人間がこんな場所を歩けるはずがない。ここを歩ける自分は、やはり幽霊なのだ。
 石造りのアーチの向こうに、赤い輪廻の輪が見えた。幽霊たちがその中に吸い込まれていく。
 あと少し。あと少しですべてが終わる
 桜は駆け出そうとした。
 誰かに手首を強く掴まれた。
「間に合ったーー」
 息切れをさせながら、彼は言った。そして桜が振り返るよりも先に、後ろから彼女を抱き寄せた。
「……連れ戻しに来たの?」
 震える声で彼女は聞く。
「そうだといったら、俺のところに戻って来てくれるか?」
 りんねの声も震えていた。
「……戻れないよ」
 桜は首を振る。彼が悲しい声で哀願した。
「戻って来てはくれないのか」
「……だめだよ」
「行ってしまうのか、どうしても」
 桜は振り返ることがおそろしかった。傷ついた顔をしたりんねを見たくなかった。
「行かなくちゃ」
「……待て」
 彼の腕をふりほどいて、駆け出した。
「真宮桜ーー!」
 本当は引き留めてくれることが嬉しかった。出来ることならいつまでもそうして抱き締めていてほしかった。何も考えなくていいのなら、ずっと側にいたかった。
 涙をのんで黄泉比良坂をのぼっていく。骨に躓きそうになりながら、花の毒に噎せ返りそうになりながら。思い出も悲しみも全部この坂を転げ落ちていくのだ。新しいなにかに生まれ変わるために。
 後ろから聞こえてくる彼の跫音は、すこしずつ小さくなっていき、やがて完全に消えた。
 赤い輪は目の前にあった。
 雨の音がやんだ。






end.  【跫音 完】

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