remnant act.10 池で鯉の跳ねる音が、彼が碁を打つ音と重なった。実に鮮やかで見事な一手だった。碁盤を見下ろしながら、敗北を悟った早雲は悔しげな唸り声を上げた。向かい合っている対戦相手が、手も足も出ずに歯噛みする早雲を真正面から見つめて、口元にあるかなしかの微かな笑みを浮かべる。 「わしの負けだよ。いやあ、それにしてもきみは強いなあ」 胡座をかいた膝をぽんと打ち、早雲は苦笑した。勝者は眼鏡の奥で目を細めながら、ゆるゆると首を振った。 「とんでもない。途中までは天道さんがリードしていました。僕はただ、運良く巻き返せただけですから」 「ははは、きみは本当によく出来た男だなあ」 彼のお世辞に気を良くして、早雲が軽快な笑い声を上げた。とんでもありません、僕なんて、とまた謙遜しながら、彼はそっと目を伏せる。早雲は作務衣の袖に腕を差し入れ、碁盤をじっと見下ろしながら、まるで自分に何か言い聞かせるように、うんうんと頷いてみせた。穏やかな表情をした早雲がその心に何を思っているのか、彼には推し量りかねた。 会話が途切れると沈黙が場を支配した。居心地が悪そうに、彼はこほん、とひとつ咳払いをした。碁を打ち終えて手持ち無沙汰だった。さして適当と思われる話題も見当たらなかった。彼を自宅へ招いたのは早雲の方なのだが、早雲とて大した話題があるわけでもなさそうだった。 沈黙が肩にのし掛かるように重い。唐突に喉の渇きを覚えて、彼は両手でそっと湯呑みを持ち上げた。しばらく手のひらで温度を感じてから、中身をのぞき込む。薄緑の水の底で茶柱が立っていた。何かいいことがある予兆だろうか。思いを巡らせながら、彼は冷めかけた茶を一口啜る。つられるようにして、早雲も湯呑みに手を伸ばした。 ぽちゃん、と鯉の跳ねる音がした。二人は引き寄せられるようにして庭の池に視線を向けた。池の水面に、ぽつりぽつりと波紋が広がっていた。見つめているうちに波紋はだんだんと増えていった。池を取り囲む石が濡れてつやを放っている。松の木の梢が小さく震えている。 今日もまた、雨が降ってきた。 「東風先生」 早雲が彼を呼んだ。その声はまるで、天に祈りを捧げるかのようにおごそかだった。 「先生はかすみに本当に良くしてくださった。あなたに会えて、あの子はきっと幸せだったはずーー」 「……」 「ありがとうございました。かすみもきっと、天国であなたに感謝しているでしょう」 東風はその精悍な横顔を見つめた。あまりにも早きにおいて、妻と娘、二人のかけがえのない家族を、残酷な死神に奪われた男。顔に刻み込まれた皺は、まるで百年分の苦難を味わった傷痕のように深かった。それでも、武闘家として培った屈強な精神が、その悲運を真っ向から受け止める強さを与えているようだった。 「……天道さん、あなたは本当にお強い人だ」 東風は賞賛をこめて囁いた。 「苦しみからしか得られない強さというのも、あるのですね」 「いや。わしは、強くなどない」 苦笑しながら早雲は首を振る。 「ただ、気付いただけなんだよ。苦しみというのは、逃げるからこそより一層追いかけてくるのだということに」 東風は頷いた。苦しみは、逃げるから追いかけてくる。まさにその通りだった。どんなに遠くへ逃げようとも、苦しみを振り切ることは出来ない。苦しみからは決して逃れられないのだ。逃げたいと思うこと自体が、それに深く囚われている証なのだから。 だから、逃げるのをやめて、立ち止まって、真正面から受け止める。そうしてこそ始めて、苦しみを克服する一歩を踏み出すことが出来るのだろう。忘れることは出来なくとも、癒えることはある。どんなに深い傷痕もいつかは薄れていくように。 「誰も後ろを向いて歩くことは出来ない。歩き出すには、前に進むためには、前を向くしかないんだよ」 早雲は穏やかな表情で言った。 「だから先生、どうかかすみのことで苦しまないでください。行ってしまったものは、もう戻らない。戻らないものよりも、これから得られるものに心を向けてあげてください。ーーきみのような男なら、きっと、いつか良い縁に恵まれるはずだ」 東風は正座したまま、目を閉じた。早雲から電話がかかってきて、囲碁でもしないかと家に招かれた時、きっとかすみのことを話すことになるだろうと予想はしていた。彼女の父は、亡くした娘の思い出話を語るだろう。涙も見せるだろう。自分も心が不安定になるのではないかと、東風は身構えていた。けれど予想に反して、早雲はかすみのことをそれほど語りはしなかった。涙も見せはしなかった。むしろ穏やかな表情をして、亡くしたかすみよりも自分自身よりも、誰よりも東風のことを案じた。 強い人だ、と東風は思った。誰よりも強いこの人に、かすみは、なびきは、そしてあかねは、育てられたのだ。この人の娘を思うのなら、手に入れたいのなら、強くならなければいけない。肉体だけでなく、心も鍛え上げなければいけない。苦しみから強さを得ることを覚えなければ。天道家の娘を包み込んでやれるだけの男になれるように。 「天道さん」 煙草の紫煙をくゆらせながら、早雲が、なんだね、と問いかけた。 「僕の負けです。あなたには、勝てそうにもない」 はは、と早雲が笑う。 「だが、たった今、きみはわしに勝ったじゃないか」 「たかが囲碁での話です。あなたに比べれば、僕なんて、まだまだ青二才だ」 早雲は好ましいものを見る目で、立ち上がった彼を見上げた。 「本当に、きみは謙虚な若者だね」 「謙遜しているわけではありません。心からの言葉です」 「分かっているよ。きみは決して嘘を言わない男だーー」 早雲も立ち上がり、障子に寄りかかって庭を見やった。東風は目を細めた。どれほどの時が経とうとも、この庭の眺めは変わらない。この家の住人がひとり減ったとしても。 「あかねがきみのことを心配していたよ」 そうですか、と東風は言った。 「あかねちゃんは、本当に優しい子です」 「親馬鹿だと思われるかもしれんが、わしもそう思うのだよ」 早雲は慈しむような眼差しを天井に向けた。 「小さい頃は、本当に東風先生のことが大好きでね。いつかきみのお嫁さんになりたいと、あの子は本気でそう言っていたよ」 「……そうでしたか」 東風の口元が綻んだ。 「もったいないことをしました。あんなに優しくていい子を、お嫁さんにもらいそこねてしまった」 「はは、なんてったって今は乱馬くんがいるからねえ。先生、本当に惜しいことをしましたね」 冗談めいた口調で早雲が言った。肩を軽く叩かれて、東風は困ったように笑った。 「乱馬くんには、やっぱりかないませんよね」 「かなわないだろうねえ。乱馬くんは、あかねを誰よりも大事に思ってくれているから」 早雲は満足げな笑みを浮かべた。 「乱馬くんは、あかねの最高の許婚だよ」 「……そこにいるんだろう、あかねちゃん」 早雲が茶のお代わりをつぎに台所に消えた途端、障子に寄りかかったまま、東風が囁いた。廊下の床が小さく軋む音がした。 「久しぶりに、顔を見せてくれないのかい?」 しばらく待ってみても、相手には動きを見せる気配が感じられなかった。待つのを諦めて、東風は身を翻し、廊下に出た。障子のちょうど彼が背をつけていたところの裏側に寄りかかって、胴着姿のあかねが俯いていた。 「聞いていたんだね。きみのお父さんと僕が話していたことを」 「す……すみません。盗み聞きするつもりじゃ、なかったんです」 あかねが言いにくそうに告げた。東風は首を振った。 「怒ってなんてないよ。でも、みっともないことを聞かれちゃったな」 「……」 「乱馬くんは、元気?」 あかねは小さく頷いた。そう、良かった、と東風は安堵の溜息をこぼした。 「僕のせいで落ち込んでたらどうしよう、と思ってたんだ」 「乱馬なら……大丈夫です」 東風はあかねを見つめた。まるで記憶に焼き付けるように、熱心な眼差しだった。あかねの頬が赤らんだ。 「先生、そんなに見ないで」 「どうして?」 「そんな風に見られたら、誰だって恥ずかしくなるわ……」 東風は口元に拳をあてて、笑いをかみ殺した。 「あかねちゃんの頼みならなんでも聞いてあげたいけど、それはだめだ。こんなに大事に思っている子が目の前にいるのに、見つめずにいられるわけがないからね……」 To be continued back |