remnant  act.9



 あの日からずっと、雨が降り続いている。
 窓を開けているわけでもないのに、診察室には長雨の匂いが立ちこめていた。診療時間終了後の、独りきりの診察室。静かなものだ。自分が器具を片付ける音と、細やかな雨音しか聞こえない。消毒液で濡れた手をタオルで拭きながら、東風は窓の外を見た。既に日は落ちていた。外は墨汁を垂らしたように真っ暗だった。雨雲がしぶとく垂れ込めているせいで、ここしばらくは月も星も出ない暗夜だ。蛍光灯に照らされて、骨格標本のベティちゃんがより一層白く見えた。彼は雨の匂いが強くなったのを感じた。
 あれから何日が経っただろう。あれからあの二人は一度も姿を見せていない。水やりをしてくれる人が再びいなくなってしまったので、待合室に置いてある鉢植えの植物は、あんなに青々としていたのに、気付けばすっかり生気を無くしていた。あかねが贈ってくれたかすみ草も、いつのまにか花瓶の中でくたりと萎れていた。東風はそのことを悔やんだ。雨の匂いに四六時中まとわりつかれているせいで、水を必要とする植物達の存在を忘れていた。雨の匂いは、死の匂いだ。
 東風は骨格標本の頭蓋に手を置いた。空っぽの眼窩を覗き込みながら、そこにかすみの目を思い描こうとした。だが、上手くいかなかった。空洞はどこまでも空洞のままだった。眼鏡の奥の東風の目を見つめ返しているのは、ただの抉れた穴だった。あの人はどんな目をしていただろう。色は、形は、大きさは?誰かを見る時、あの人はどんな眼差しをしていた?
 箸で摘めるほどの骨の欠片になって、小さな壺に納められ、石の下で安らかに眠る彼女。自分は死んでも彼女と同じ場所へは行けないのだと、東風は思った。自分達は家族でも結婚した夫婦でも何でもないから、所詮は他人でしかなかったから、同じ墓には眠れない。骨になった後も離れ離れだ。
 次に東風は乱馬とあかねを思った。二人は両家の親が認めた許婚同士。ゆくゆくは結婚して、家庭を築いて、長い人生を添い遂げて。そして、骨になっても同じ場所で眠りにつくのだろう。
 そうなるべきだ。あかねが選ぶ男は、誰よりも強い男でなければいけない。強さを追求してやまないあの少年こそ、彼女に相応しい。
 東風は片手を標本の腰に添え、もう一方の手で冷たい手をとった。白い床の上でステップを踏みながら、彼は鼻歌を歌った。まるで死人と踊っているような気がした。目を閉じて、小さな声で、かすみさん、と呼んでみる。
「――あなたの妹は、今なにをしているんだろう」
 雨の匂いがした。鉢植えの植物が、花瓶の中のかすみ草が、より一層萎れていった。


 初めて朝帰りをした日から、乱馬は片時もあかねの側から離れなくなった。あかねがどこへ行くにも子犬のようにくっついて回るせいで、家族や友達からはからかわれっぱなしだった。それでも乱馬は構わなかった。側にいたいからいる。ただそれだけだ。
 朝はあかねに起こしてもらって、一緒に学校に行く。帰りは商店街に寄り道して、甘いものでも食べる。帰宅したら道場で稽古をして、気が向いたら手合せする。夜にはあかねの部屋で宿題を写させてもらい、飽きたらベッドに入ってあかねを求めて、そのままいつのまにか眠りについている。
 少しの間でもあかねの姿が見えないと、不安に駆られた。ちゃんと手を握り締めていないと、風船のようにどこか遠くへ飛んでいってしまいそうで、恐かった。
 今日も雨が降っている。一つの傘におさまって、手を繋いで歩く。傘を持つのは乱馬の役目だ。あかねが濡れないように傘を傾けているので、自分の肩が傘からはみ出しているが、気にはしない。水に濡れてももう女にはならないのだから。
「いやな天気ね。傘なしじゃ外にも出られない」
 隣であかねが溜息をついた。この長雨のせいで、朝のロードワークができずにいることを残念がっているようだった。
「いいじゃねーか。雨のおかげで、こうやって相合傘もできることだし」
 乱馬はなるべく前向きに考えようとした。そうした方があかねの表情も明るくなるに違いない。
「――ばか」
 照れ隠しのように、唇をとがらせてあかねが言う。肩を叩かれると、乱馬は大袈裟に痛がってみせた。
「そんなに強く叩いてないわよ!」
 あかねは頬を膨らませる。その頬を、にやにやしながら乱馬が指でつつく。
「あかねちゃんは怪力だからなあー」
「悪かったわね、怪力でっ」
 あかねが不機嫌そうにそっぽを向く。その後頭部を見下ろしながら乱馬はひそかに安堵を覚えた。よかった、あかねは変わらない。女のくせに怪力なところも、小さなことですぐにむつけるところも。何も変わりはしない。あかねはあかねのままだ。乱馬はあかねの全てを知っている。彼が知らない部分など、あるはずがないのだ。
「なあ、あかね」
「なによ」
 乱馬は声のトーンを落とした。
「俺のこと、世界で一番好き?」
 あかねは大きく肩を揺らした。彼女が振り返って、二人の目が合うまでのわずかな時間が、乱馬にはとてつもなく長く感じられた。
「なんでそんなこと聞くのよ」
 二人は道路の真ん中で立ち止まった。マンホールの下を大量の水が流れていく音が聞こえた。
「だって俺たち、いつか結婚するんだろ。結婚って、世界で一番好きな相手とするもんじゃねえのか?」
 あかねは虚を衝かれた顔をしていた。彼女が何を思っているのか、乱馬には分からなかった。彼は焦燥した。
「俺、本当にあかねの許婚でいていいんだよな?」
「あ、当たり前じゃない」
 あかねが目を見開きながら言った。
「どうしたの、乱馬。急にそんなこと言い出して」
 乱馬は無言のまま、あかねの手を引いて歩き出した。見知らぬ街で迷子になったような気分だった。





To be continued

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