remnant  act.8
R15





 振り返りもせずに遠ざかっていこうとする乱馬の背を、あかねは無我夢中で追い掛けた。強い雨がアスファルトの地面を毛羽立たせていた。いくつもの曲がり角を曲がり、信号を無視して道路を横切り、やがて見馴れない街に差し掛かっても、乱馬の疾走はとまらなかった。ずぶ濡れになりながら、水溜まりを蹴りながら、あかねは何度も乱馬を呼んだ。行き交う人々が傘を傾けながら、何事かと二人を振り返るが、あかねの目には乱馬の後ろ姿しか見えなかった。
「乱――」
 声を張り上げて叫ぼうとして、落ちていた石に派手に躓いた。あかねの身体は前のめりになって宙に浮き、次の瞬間には、大きな水溜まりの中に盛大な音を立てて落ちた。
 あかねは泣いた。水溜まりから立ち上がりもせずに、その中に座り込んだまま、子供のように声を上げて泣いた。まるでたったいま川にでも溺れたかのように、全身びしょ濡れだった。涙とともに、水気を含んだ髪の毛から水滴がさかんにしたたり落ちた。
 突然、手首を掴まれて引き上げられた。驚いて目を見開く彼女を、乱馬が睨むように見据えていた。
「ついてこい」
 投げ遣りな、しかし有無を言わせぬ口調で彼は言った。手を引かれてよろけながら、怖気付いたようにあかねが聞く。
「どこに、行くの」
「……誰にも見つからねえところ」
 唸るように低い声で乱馬は答えた。このうえなく不機嫌そうなので、あかねは俯いて押し黙った。彼は彼女の手首を強く掴んだまま、土砂降りの雨の中、見知らぬ街を臆せず歩いていく。信号が赤だろうが、構わずに渡った。水溜まりもよけずに踏みならした。雨のせいでさびれた商店街に差し掛かると、ようやく、早足だったのが少しずつ遅くなってきた。あかねは頬を流れる涙とも雨ともつかない水滴を拭いながら、視線を上に向けた。たくさんの赤提灯がぶら下がっていた。いつのまにか日が暮れていて、ちょうど提灯にぼんやりと明かりがつくところだった。
「乱馬……うちに帰らないの?」
 消え入るような声であかねが尋ねると、彼は振り返らずに即答した。
「帰らない」
「――なんで?」
「誰にも見つからねえところに、行きたいから」
 細く狭い路地に入ると、至るところで極彩色のネオンが瞬いていた。そこは二人の知らない、享楽的で淫靡な世界の匂いがした。とんでもないところに足を踏み入れてしまった、という思いに駆られてあかねは足が竦んだ。彼女は引き返したかった。だが乱馬は立ち止まらずに突き進んでいった。
「か、帰ろうよ」
 怖気付くあかねに構いもせずに、乱馬は路地の一番奥にある廃れたラブホテルに入っていく。目を白黒させているうちに、半ば無理矢理に手を引かれて、その一室に連れ込まれた。
「脱げよ」
 扉が閉まった瞬間、乱馬が冷たく言い放った。あかねは耳を疑い、思わず後ずさった。
「な……何言ってんの、あんた」
「服を脱げっつってんだよ」
 乱馬は怪訝に眉根を寄せながら、じりじりとあかねを壁際に追い詰めていく。あかねは逃げ惑ううさぎのような目をした。乱馬の表情が心なしか和らいだ。
「早くしろ。――着替えねえと、風邪引くぞ」
 後ろを向いて、乱馬はぶっきらぼうに呟いた。それから、くしゅん、と小さなくしゃみを一つした。鼻を啜る彼の背中に、あかねはそっと抱き付いた。肩が一瞬ぴくりと震えたが、彼は彼女を拒絶することはしなかった。互いに水が滴るほどしっとりと濡れていた。けれど、服越しに触れ合っているところから徐々に温まってきた。
「あんたが風邪引いてるじゃない――」
 決して咎めるようにではなく、むしろ労るような口調であかねは言った。乱馬が振り返って、彼女を強く掻き抱いた。
「そうか。じゃあ、お前に温めてもらう」
 彼の唇があかねの首筋をきつく吸った。赤くなったその部分を、乱馬は舌で優しく舐めた。あかねが擽ったそうに肩を震わせると、そっと目を細めて、ここに来て初めての笑顔を見せた。乱馬は彼女を抱き上げて、広いベッドに横たえた。
「俺のものだ――」
 濡れて肌に張りつく制服と下着を脱がせて、露になった肢体を、目で、指で、唇でいつくしみながら、乱馬はまるでうわごとのように何度も同じ言葉を繰り返した。
「俺の許婚だ。お前は、俺のものだ。誰にも渡さねえ」
 深く繋がったまま、唇を合わせた。何度も何度も角度を変えてはまた重ねた。こぼれた唾液が首や胸をすべり落ちた。あかねは溜息とともに囁いた。
「――あたしは、あんたのもの。あんたは、あたしのものよ」
 彼女の中で、彼がより一層質量を増した。乱馬は衰えを知らなかった。あかねはそんな乱馬にただただ翻弄された。彼の向けてくれる熱情にのぼせ、底無しの湖のように深い愛に溺れた。
 けれど、頭の中の一部分は奇妙なほどに冴えたままだった。そしてその部分で、彼に貫かれながらも、彼女はひそかに嘆くのだった。
 初恋をどこかに捨てることが出来たならいいのに。人はなぜ、むかしの恋を忘れられないんだろう。時がすべてを隠してくれたと思ったのに、結局、時がまた明るみにしてしまう。
 ――東風先生。





To be continued

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