聖少女 | ナノ

聖少女


 あの日のことは、あまりよく覚えていない。深い湖の底に落とした小石を探し求めて水中をまさぐるかのように、何度も、何度でもあの日の記憶を掴み取ろうとするけれど。そのたびに、それは気紛れな魚のようにこの手の内を擦り抜けていってしまうのだ。確かにその幸せな感触を肌に残していきながらも。
 記憶がこれほど頼りないものだったとは、思いもよらなかった。
 あの日あの部屋の窓の外に見えたのは、星満天の夜空だったような気もするし、満ちる間際の月や、春に降る雨よりも細い雨、あるいはその全てだったかもしれないし、そのどれでもなかったかもしれない。
 彼女が着ていたパジャマの色は、咲き始めの花のように淡いピンクだっただろうか。それとも一点のけがれもない白だったか。
 ――やはり、だめだ。はっきりとは思い出せない。
 けれど。
 窓の外の景色にしても彼女のパジャマの色にしても、思い出せないのも仕方のないことなのだ。
 なぜなら窓のカーテンは隙間のないようにぴったりと閉めてしまったし、彼女の着ていたパジャマは、自分がこの手で脱がせてしまったのだから。
 あの日。
 片思いが終わった日。
 幸せを掴み取った日。
 彼女との距離がゼロになった日。


 後ろ手にカーテンを閉めたりんねが、深く息をついた。胸に手を当て、逸る心を落ち着けるように彼はそれを繰り返した。広い肩が何度も上下するのを、ベッドの上で整然と正座したまま桜は見守っていた。
「真っ暗だね。――顔もよく見えなくなっちゃった」
 彼女が小さな声で呟いた。りんねにはその声が微かに震えているような気がした。不安にさせないために、小さな肩に彼は遠慮がちに手を置いた。その時になって初めて、自分の手が小刻みに震えていることに気付いた。落ち着け、と心の中で自分を強く叱咤した。
 暗闇の中で桜が目を閉じるのが分かった。りんねは音を立てずに生唾を飲んだ。まるでそれが聖なる儀式を始める合図であるかのように、首を傾けて唇を重ねようとする。けれど吐息の降り掛かるほど距離が近付いてから、今度は唇が震えて思うようにならなくなった。
 全てを彼の手に委ねる、と。
 何も恐くはないと、桜は言ってくれた。
 けれどりんねは恐ろしかった。
 前に進みたいのに、それ以上進むことが出来なかった。そうすることで彼女を汚してしまうような気がして身体が竦んだ。同じ世界を生きられない男と情を交わすということは、彼女の枷となりはしないだろうか。自分は彼女に生涯消えない汚れを与えてしまうのではないか――。その懸念は彼の熱情を冷まし、背筋を凍らせた。
 りんねの躊躇を、彼女は感じ取っていたのかもしれない。
「今、どんな顔をしてる?」
 桜の手が優しく彼の頬を包み込んだ。顔の輪郭を辿るように、目や鼻や口の造形の一つ一つを愛おしむように、手をすべらせていく。臆病な顔をしていると思われたくなくて、りんねは唇を真一文字に引き結んだ。彼の眉間に寄ったしわを指先で撫でながら、彼女が囁いた。
「……何を考えているの?」
 お前のことを、と彼は心の中で返答した。その瞬間、桜が膝立ちになって、彼の額にキスをした。
「お願い。私のことで、悩まないで」
 りんねは額を押さえながら、闇に浮かび上がる彼女の顔を呆然と見上げた。
「そんなに悲しい目で私を見ないで。私、後悔なんてしないから。もう、何も考えたりしなくていいから――」
 後悔なんてしない。
 その言葉は、頑なに張り詰めていた彼の心の琴線に触れた。蔓をめぐらせていた葛藤が解かれていく。りんねは弾かれたように手を伸ばし、桜の腰を抱き寄せた。より一層彼女が恋しくて堪らなくなった。
 息つく暇すらも惜しみながら唇を重ねる。舌を絡めても髪に指を通してもまだ物足りなかった。隙間がなくなるほど彼女に寄り添いたかった。誰にも見えないところで、もっと深く繋がりたかった。
 ――真宮桜。お前がそう言ってくれるなら、俺も、後悔なんてしない。
 言葉が届くものなら、耳元でそう囁きたかった。もどかしく思いながらも、りんねはゆっくりと彼女を横たえた。黄泉の羽織を脱ぎ、中に着ていたものも丸めて床に投げ落とす。上半身に一糸纏わぬ姿となった彼は、桜にもう一度深くキスをした。
 どんな困難が待ち受けていようとも、二度と再び、黙って姿を消したりはしないと誓う。
 ――逢いにくるよ。何度でも。
 たとえそれが死神の掟に背くことであっても。人間の女としての彼女の未来を奪うことになるとしても。
 これが生涯で一度きりの恋だから。何が何でも守りぬいてみせる。
 言葉が通じないのなら、視線で、指先で、唇で伝えるしかない。
 決して後悔や後戻りはしないと決めた。あとは命ある限り、彼女を愛し尽くすまでだ。
「あなたの身体は、あったかいね」
 脱がせたパジャマを床に落とす彼に、胸に抱かれた桜が言った。衣服という隔たりをなくして接することで、りんねはこの世の誰よりも彼女に近付けたような気がした。
「……幽霊でもこんなにあったかいんだ」
 不思議そうな桜の呟きに、彼ははぐらかすような微笑を浮かべる。
 ――幽霊じゃない。死神でもない。今は、ただの男だ。
 そう伝えようと、柔らかな彼女の身体にそっと手を這わせる。すると擽ったそうに、彼女は身を捩らせた。仕返しのように彼に手を伸ばして擽ってくる。まるで子猫が戯れ合っているかのようだった。
 二人はベッドにもつれ込んだ。どちらともなく唇を合わせ、気のおもむくままにそうした後、何かに憑かれたように無言で見つめ合った。
 ――好きだ。
 声にならないと分かっていても、りんねは言わずにはいられなかった。
「うん。――私も」
 不思議なことに、桜は聞こえていないはずの彼の言葉を理解したようだった。
 彼は彼女に覆いかぶさった。その背中に、彼女が手を回した――。
 その日初めて、二人は同じ夢を見た。





end.


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