After Dark



 深く冴え渡った夜の空に、今宵は見事な望月が掛かっていた。
 ここは、数多の異形が集う不思議の街――。
 街外れの船着場には明かりがついたままの屋形船が無数、水面に揺らめいている。
 風変わりな歓楽街には極彩色のネオンがまたたき、道行く者たちをめくるめく享楽へと誘っている。
 亡霊のようにおぼろげな姿の者もあれば、蛸のように脚を無数生やした者、衣で顔を隠す者、羽のある者、長い尾を持つ者もいる。
 この街の夜は、底無しの沼よりも深い。
 そして、一度その深みにはまってしまった者は、なかなか抜け出すことができない。
 ――足を踏み入れたが最後。
 欄干から細い脚をぶらぶらさせながら、腹掛け姿の少女は白い月をふりあおぐ。
 彼女もまた、この街の夜の囚われ人だった。
 この建物を支配する魔女に契約を結ばされ、湯女として働くことを強いられている。
 どういうわけか彼女は希少価値が高いらしく、毎夜、客からのお呼びが絶えなかった。
 客間に膳を運んで卑猥な冗談を投げ掛けられることも、舐めるような視線で見られることも、その程度のことはここでは日常茶飯事で、もう、とうに馴れた。
 けれど。
 そういった客に、彼女が夜伽をつとめることは決してなかった。
 ただ一人だけを除いては。


「千尋」
 振り向きざま、後ろから白い袖で包み込むように抱き締められて、少女は身を竦めた。
「こんな姿で夜風にあたっていては、風邪をひいてしまう」
 兄のように優しい声でその人はたしなめる。耳に心地好いその声に、少女はうっとりと聞き入った。
「月を見ていたの?」
「……はい」
「確かに、今夜の月は綺麗だ」
 月光を浴びてわずかに目を細める彼。彼女は後ろに首を回して、その端整な顔を見上げた。
「ハク様」
 彼は視線を落として少女の目を見つめた。深い緑色の目を、月光に輝かせながら。
 無垢な目をして少女が尋ねる。
「どうしてわたしを『千尋』と呼ぶんですか?」
 一瞬の間があった。
 ハクは伏し目になる。
「……それは、そなたが千尋だからだ」
「わたしは千です。皆、そう呼びます」
 それ以上、ハクは何も言わなかった。彼女の主張を否定することも肯定することもしなかった。ただ、少しだけ寂しそうに笑うのだった。
「目を閉じて、千尋」
 彼女は言われた通りにした。
 むき出しの背中にハクの手が添えられる。
 額に、頬に、そして唇に、時間をかけて口付けていく彼。それぞれの箇所に思いをこめて、優しく、丁寧に。
 優しくされればされるほど、何故か少女は切なくてたまらなくなる。
「ハク様、どうかわたしを忘れないでください」
 彼の首に腕を回して、彼女は哀願した。
「わたしにはあなたしかいないんです。お願い、わたしを忘れないで――」
「忘れるものか」
 額を合わせて、ハクは目を閉じる。
「たとえ自分の名を忘れたとしても、そなただけは忘れない。――会いに来るよ、これから先もずっと」
「会いに来るだけ?傍にはいてくれないの?」
 目に涙を溜め、彼女は息をつまらせた。
「……私は夜にしか生きられないんだ」
 悲しそうにハクが言う。
「出来ることならずっと千尋の傍にいたい。そなたと一緒に朝を迎えたい。――でも、無理なんだよ。日が昇ったら、私は影も形もない存在になってしまう」
 流れてきた雲に、月が隠された。
 世界は暗澹とした闇に沈む。


 涙のあとが残る頬を、ハクはそっと撫でた。
 千尋は、眠りに落ちるまでずっと泣いていた。寝具のなかでどんなに優しくしてやっても、心を尽くしても、悲しみの淵に沈んだまま、浮かび上がってこようとしなかった。
 ――私は無力だ。
 救ってやることの出来ないもどかしさに、彼は唇を噛み締める。
 腕のなかで、眠る千尋がわずかに身じろぎした。前髪を汗ばんだ額に張り付けて、今夜もまた、悪夢にうなされている。
 ハクは二本の指を立てて、彼女の額に当てた。
 自分も目を閉じて、深呼吸をして、指先に神経を集中させる。
 ――千尋の見ている夢は、遥か遠い夏の夢だった。
 少年と少女が草原を前にたたずんでいる。ゆるやかな風になびく二人の髪。手を繋いだまま、二人は顔を見合わせる。
「また、どこかで会える?」
「きっと」
「きっとよ?」
「きっと。
 さあ、行きな。振り向かないで――」
 繋いだ手を、離す。
 少女は青い草原に足を踏み入れる。
 空に立ちのぼる入道雲の下、前を目指して駆けていく。
 やがて、両親と出会った。
 無事に人間に戻れた二人を見て、張り詰めていた緊張が緩んだ。
 ふと、後ろが気になった。
 あっさりと離してしまった手を、今更になって名残惜しく思った。
 千尋はゆっくりと首を回した。
 すぐ後ろに、大人になったハクが立っていた。
「振り向かないで、と言ったのに――」
 千尋は口をぽかんと開けて彼を見上げた。
 風が強まった。
 銭婆から貰った髪留めが、ぷつりと切れて、ほどけた髪が背中にふりかかった。
 背後から両親の悲鳴が聞こえた。
 振り返ろうとした千尋の目を、ハクは咄嗟に手で覆った。
「見てはいけない――」
「離して!」
 ハクの手を振りほどいて、千尋は両親を振り返った。
 ――これ以上見てはいけない。
 ハクは魔法をかけて、強制的に千尋の夢を終わらせた。
 腕のなかで、強ばっていた千尋の身体が弛緩する。
 抱き締めて、頬を寄せて、彼もまた目を閉じた。
 憐れで愛しい人間の娘。
 全てを忘れることが出来たなら、あるいは救われるのか。





end.

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