天にそそぐ川




 気が付くと、川を下っていた。月のように白く輝く小船に乗って、たった独りきりで。いつからこの船に乗っていたのかは分からない。行き着く先がどこかなのかも分からない。けれど、不思議と心には一抹の不安もなかった。ただ凪いだ水面のように安らかな心持ちがしていた。
 船縁から少しだけ身を乗り出してみる。
 冷たい風が吹いている。宙でつむじを巻くほの白い風の姿が目に見える。凍れる夜空が川となって、小船の下を静かに流れていた。船はその穏やかな流れに乗って、永遠のように長い時をかけて、ゆっくりと終着地へ運ばれていくのだった。船を追い掛ける魚のように、星が尾を引いて夜空を流れていく。
 旅人は、その川に白い手を浸してみた。そのまましばらく冷たい夜空の感触を味わった。それから、両の掌いっぱいに水をすくい上げて、青白く光る月にかざした。指の間から零れ落ちた雫が川面に弾けた瞬間、深い夜空が抜けるような夏の青空に変わった。
 振り返ると、小船の後方から何かが流れてきていた。それは黄色い子供靴だった。旅人はそれに向かって手を伸ばしたが、遠くて届かなかった。ぷかぷかと水面に浮きながら、その靴は一足先に下流へと流されていった。それが水平線の彼方に消えて完全に見えなくなるまで、旅人は見送った。
 靴が消えていった方で、誰かの声がした。それはもう何百年も前に聞いたように思えるほど懐かしい、あの少女の声だった。
 ――また、どこかで会える?
 川のせせらぎにまぎれて届く声が、狂おしいほど愛しくて。我知らず、旅人は白い頬に涙を流した。安らかだった心に、幾重もの波紋が広がった。
「そうだ、私は――死んだ」
 旅人は震える手で船縁を掴んだ。空は既に始めの夜空に戻っており、月が高いところから小船を見下ろしていた。
 この川は天にそそぐ三途の川なのだ。魔女に八つ裂きにされて死んだ私は、魂だけの存在となって、この小船に乗せられ、天に運ばれているのだ――。そのことに旅人はようやく気付いた。
 月と冥府の神、月黄泉尊が遥かな高みから旅人に語り掛けた。
「ニギハヤミコハクヌシよ、何を苦しむことがある?生を手放したそなたは、既にいっさいの苦しみから解き放たれたというのに――」
「……解き放たれてなどいない」
 旅人は挑むように水面に映る月を見据えた。
「このまま天に召されるわけにはいきません。どうか私をこの船から降ろしてください」
「ならぬ。そなたは既に死んだ身、戻ることはまかりならぬ」
「約束をしたのです。その約束を、私は果たさなければいけない――」
 言うが早いか、旅人は白装束をひるがえして川に飛び込んだ。その姿は月のように美しく輝く龍となり、やがて夜空の底に沈んで、消えた。
「天の平安な暮らしよりも、人間の小娘ごときとの約束を選ぶか。――なんとも酔狂な」
 月の神が呆れたように言うが、答える声は既になかった。

「やだ、雨だわ」
 運転席のドアが勢い良く閉まる。車から降りて急ぎ足で家に向かう母親を、助手席から降りた少女も慌てて追い掛けようとした。
 ふと、気配を感じて後ろを振り返る。
 雨音にまじって誰かの声を聞いた気がした。雨のなか、少女は立ち止まって耳を澄ませる。けれどやはり空耳だったのか、雨音の他には何も聞こえなかった。辺りに目を凝らしてみても、誰の姿も見当たらなかった。
「誰か、いるの?」
 そう問い掛けた少女の頬に、一際大きな雫がぽたりと降り落ちた。出所を探して少女は夜空を見上げた。うっすらとした雨雲の向こうに、一瞬何かがきらりと輝いたような気がした。
 月か星かもしれない、と少女は思った。
 それにしても、今夜の夜空はいつにも増して深い。
「千尋ー、何してるの?早く入りなさい」
「はーい」
 少女が家のなかに入ってからも、雨はさやかに降り続けた。まるで誰かの涙のように。

 夜空に輝く月と共に千尋を見守りたい。流れる星と共に千尋の願い事を叶えたい。そして時には地上に降り注ぐ雨となって、あの子に会いにゆく。
 空が青ければ青く、白ければ白く。そうして空と解け合った私の姿は、地上の誰の目にも見えないだろう。無論、千尋にさえも。
 それでもいい。極楽浄土になど渡りはしない。
 私は、天にそそぐ川になる。





end.


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