花嫁 - 15 - 戸に下がる筵を上げて中に入ると、囲炉裏の火はとうに消えており、ひんやりとして暗かった。後ろについてきたタエを気遣い、アシタカは振り返って声を掛ける。 「すまない。留守にしていたから家がすっかり冷え込んでしまった。すぐに火をつけるから」 煮物の入った器を持ったまま、彼は囲炉裏に近付こうとした。が、背後から小さな声で呼び止められた。 「……難儀ではありませんか?」 薄闇の中でタエがじっと見つめていた。問われていることの意味を推し測りかねて、アシタカはわずかに眉をひそめる。 「難儀、とは?」 「このようにお一人で暮らしていては、色々と大変なこともおありでしょう」 タエの声色は気遣わしげだった。心の底からアシタカの身を案じているようだった。その真心が彼は素直に嬉しかった。余所者の自分を受け入れてくれたこのタタラの村に、あらためて感謝の気持ちが溢れた。 タエが覚悟を決めたように、身を乗り出して聞いてきた。 「アシタカ様は、村娘の誰かを娶るおつもりはないのですか?」 「ああ、ない」 アシタカはきっぱりと言い切った。間髪入れず返ってきた答えに、タエは戸惑いを隠せない様子だった。 「何故です?所帯を持てば、お暮らしも随分と楽になりましょうに……」 「男一人でも、私はそれほど難儀はしていないよ」 アシタカは微笑した。囲炉裏に近付いていき、火をつける。すると家の中がたちまち明るくなった。 「こちらへ来て、火に当たるといい。暖かいから」 囲炉裏の側で胡座をかくアシタカに手招きされて、タエは頬を微かに染めた。やや俯き加減に近付いていき、彼の目の前に腰を下ろす。 アシタカの頬に手当てを施す間、タエはじっと無言を押し通した。彼もあえて話し掛けることはせず、ただ黙ってなすがままにされていた。家の中はしんと静まり返っていた。時折、風が筵に吹き付ける音や、薪のはぜる音が、沈黙をいたずらに擽るばかりだった。 壁に映し出されたタエの影が揺れ動くのを見つめながら、アシタカは長い時を過ごした。脳裏に浮かぶのはサンのことばかりだった。今こうしている間にも彼女があのシシ神と寄り添っているのではないかと思うと、心がざわついた。膝の上で拳を強く握り締める。 「――何かを案じていらっしゃるのですね」 ふと気付くと、タエが彼の掌に出来た切り傷に、細かく刻んだ薬草を振り掛けていた。サンが投げた小刀を掴み取った時に出来た傷だ。薬草が少し沁みて、アシタカは目を細めた。今し方まで忘れかけていた傷だった。 「アシタカ様の目はいつも曇りないけれど、今宵は少し陰っているようです」 タエが彼の目を覗き込みながら言った。手当てされた頬に触れながら、彼は自嘲気味に笑う。 「それは、今宵の私が迷いだらけだからだろう」 「迷い?一体、何を迷っていらっしゃるのですか?」 タエが首を傾げた。アシタカは囲炉裏の火を見つめながら、うわごとのように呟いた。 「眩しいものから目を背けるべきか、それでも見つめ続けるべきか――」 彼の目の中で、囲炉裏の火が熱く燃え上がる。火の粉を飛ばし、鍋の底を焦がしながら。夏の虫は自ら火に飛び入っていくが、果たして自分はどうだろう。恐れをなして火から遠ざかるだろうか。それとも。 「曇りなき眼で見定めよ、か」 アシタカは腕をそっと押さえた。タタリ神の呪いが自分の眼を曇らせているのか。そう思いたかった。死の呪いの方が、この恋よりもはるかに容易く克服できるような気がした。 洞穴に帰るやふて寝してしまったサンを見て、山犬の兄弟は顔を見合わせた。 「またあの小僧か?」 「……だろうな」 二頭は揃って呆れたように溜息をつく。その溜息に反応して起き上がったサンが、身体に掛けた藁布団を首元まで引き上げながら、彼らをじろりと睨み付けた。 「なんなんだ、あいつは!」 「……」 「せっかく仲直りが出来たと思ったのに。もう、知らない!」 サンは胎児のように身を丸めた。胸元にいつもぶら下げていた玉の小刀が無かった。ぶん投げてやってせいせいした、と思いたかった。だがその願いとは裏腹に、気分は晴れなかった。 【続】 back |