花冷え | ナノ

花冷え

 その並木道は、定規を当てたようにまっすぐに、どこまでも続いていた。どんなに歩いても、どんなに目を凝らしても、道の果ては見えず、水彩画のように淡く色付く桜の花が、永遠のように伸びる道の先をおぼろげにぼかしていた。
 遠くを見遥かすのをやめて、彼は近くの景色に焦点を合わせる。
 道の両側に添って、整然と、等間隔に植えられた染井吉野の木々。どれも花は八分咲きといった具合だった。風が吹くたびに、細い枝がふるふると震え、白い空に消え入るように花びらが舞い上がる。まるで雪が降っているようだと彼は錯覚した。今、自分が見ているのは、春の到来か、それとも冬の再来か。
「六道くん」
 彼女の呼ぶ声がすると同時に、頭上から雀の囀りが聞こえた。雀は枝で羽休めしながら、今にもほころびそうな蕾を、小さな觜でしきりに愛でている。それでも蕾はまだ芽吹かず、焦らされた雀はまた一声鳴く。
「今までありがとう」
 りんねの目をまっすぐに見つめながら、桜は穏やかに微笑んだ。その表情を脳裏にくっきりと焼き付けてしまった彼は、震える心をかかえて唇を噛み締める。それ以上鮮明に彼女を記憶してしまうことを恐れて、逃げるように視線を空へ向けた。今日はあいにくの曇り空で、太陽が見えない。それでもりんねは、冬よりも白い空に光を探す。
「……最後に会えて、本当に良かった」
 静かな声で桜は言った。横顔に視線を感じながら、彼は拳を震えるほど強く握り締める。
 ――最後。
 その言葉に、心の琴線がぷつりと切れてしまいそうになる。彼女が区切りを付けようとしているのだと悟ると、ひどく息苦しくなってりんねは胸を押さえた。もう真宮桜と会えなくなる。その笑顔も声も全て、遠く手の届かない所へと行ってしまう――。そんなつらい思いを味わうくらいなら、いっそのこと輪廻の輪に乗って、片恋の苦悩を知らない何か別の生き物へ転生してしまいたい、とすら思った。
「さようなら、六道くん」
 自分がいかに残酷な宣告をしているかを、果たして彼女は自覚しているだろうか。

「急に引っ越しが決まったの」
 終業式から数日経った今日、何の前触れもなくクラブ棟に訪れた桜は、話があるといってりんねをこの並木道へ連れ出したかと思うと、唐突にそう告げたのだった。
「新学期からは、新しい学校に行くことになったから。もう会えなくなると思って、別れの挨拶をしたくて――」
 地獄の鬼に金棒で殴られた方がまだましかもしれなかった。あるいは閻魔王の沙汰にかけられたとしても、これほど心が竦み上がることはないだろう――。
 別れを告げられ、りんねは途方に暮れた。あまりにも衝撃が強過ぎて、悲しみが色濃くて、返す言葉すら見失った。
「……じゃあ、そろそろ帰るね。元気でね、六道くん」
 言うべきことは言い終えたとばかりに、桜はきびすを返そうとする。ただじっと沈黙を守り続けるりんねを持て余したようだった。
 ようやくりんねは我に返り、咄嗟に彼女の肩を掴んで引き留めた。
「待て――真宮桜」
 からからに乾いた喉から、それでもなんとか言葉を発する。
「まだ、話がある」
 桜は彼に背を向けたまま、ぴたりと立ち止まった。
「……何の話?」
 問い掛けられて、りんねはそっと目を伏せる。
「分からない。話したいことは色々あるはずなのに――何から話したらいいのか、分からないんだ」
 彼女の肩に置かれた彼の手が、遠慮がちにそっと離れた。
 瞬間、一際強い風が、二人の間を通り抜けた。下から吹き上げられた染井吉野の花びらがまた、白い空に雪のようにとけて見えなくなる。春とは思えないほどの花冷えの寒さに、りんねは身震いした。冷たい風から身を守るように、羽織の前をかき合わせる。
「さっきから、震えが止まらないんだ……」
 りんねは歯をがちがちと鳴らしながら、鼻をすすった。風が強いせいか、目がしみた。何度か瞬きをすると、今度は目蓋がじんと熱くなった。みるみるうちに、曇りがかった鏡を覗いているかのように、視界に収まる桜の後ろ姿がぼやけ始めた。
「お前に会えなくなると思うと、もう、何が何だか分からなくなって――」
 振り返った桜は、りんねを見上げて大きな目をさらに見開いた。俯く彼の双眸から、水晶よりもきれいな涙が零れ落ちていた。誰かが恋しくて流れる涙は、なんて美しいのだろう。
「六道くん……泣いているの?」
 皆まで言わせず、りんねは彼女を強い力で抱き寄せた。
「最後だなんて、別れだなんて、頼むから言わないでくれ」
 喉の奥から絞り出すようにして彼は言う。
「真宮桜――俺はお前でなければ駄目なんだ。他の誰が側にいてくれたとしても……」
 ――他に何を失ってもいい、彼女だけは決して失いたくなかった。
 家と呼べる場所も、まともな家族も、安らかに暮らせるだけの金銭も。ありふれたものは何も持っていない彼が、何よりも大切にしているものがあった。
 それは桜と過ごす時間であり、記憶だった。彼女が側にいてくれるだけで、りんねは自分がこの世の誰よりも幸せな人間になれるような気がしていた。
 いつもささやかな幸福をもたらしてくれる真宮桜。りんねは彼女のことがとても好きだった。舞い落ちた花びらがどんどん降り積もっていくように、昨日よりも今日はより一層想いが募ったのが分かる。きっと明日は、今日よりもさらに彼女を恋しく思う自分がいるだろう。
 けれどそれは自分の一方的な想いでしかないことを、理性的なたちのりんねはきちんと弁えていた。だから、桜に無理矢理自分の想いを押し付けるようなことは決してしまいと、心に固く決めていた。
 側にいられるだけで良かった。それ以上は何も高望みしたりしないはずだった。なのになぜ運命の女神は、こうも自分に冷たいのだろう。
「……私がいなくなったら、寂しい?」
 彼の腕の中に収まったまま、桜が尋ねた。
「寂しくて、死ぬ」
 すっかり元気を無くした様子でりんねは答えた。桜は慰めるように、彼の背中をぽんぽんと叩く。
「死なないでね。時々、会いにくるから」

「――時々、とはどのくらいの頻度だ?」
「一ヵ月に一度とか、それくらいかな」
 それは遅い、とりんねは顔色を曇らせた。
「今までは週に五日も会えたのに、今度からは月に一日だけか――。分かった。俺がお前に会いに行けばいいんだ。霊道を通って」
「もしかして六道くんって、案外寂しがりや?」
 笑いながらも不思議そうに桜が聞くと、彼は目を擦りながら小さな声で呟いた。
「そうかもしれんな。……真宮桜、お前にだけは」

 花冷えが来ると桜の花は長持ちするらしいと、誰かが言っていた。
 彼女は思う。きっと自分達も、少し人恋しいくらいの肌寒さでいるのがちょうどいいのだと。
 永遠のように続く道の先で、染井吉野の枝が静かに揺れた。






end.

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