逢魔  - 8 -




 今は果たして、魔物に逢うという誰そ彼時なのか、あるいは草木も眠る丑三つ時なのか――。
 奈落の底よりも暗い墓場を、世にも恐ろしい悪霊が徘徊していた。
 そのものは、額に二本の長い蝋燭を巻き付けている。雨に打たれても、風に吹かれても、ちらちらと揺らぐ二つの火は消えない。溶け出した蝋が髪や顔に滴り落ちて、所々固まっている。
「ううう……」
 血走る眼球を上下にぐるぐる回転させながら、亡霊は獣のような唸り声を上げた。口には錆びた五寸釘をくわえている。片方の手には金槌、もう片方の手には、一体のワラ人形を握り締めながら。
 悪霊はもどかしくて仕方がなかった。何度試みても、寺の入り口に生えた銀杏の木から先へ進めない。その先には強い結界が張ってあり、悪しきものの侵入を頑なに拒んでいた。
「おのれぇ……!」
 恨めしい。憎らしい。なぜこうも蔑ろにするのか。拒むのか。
 彼女は金槌を力任せに振り下ろした。銀杏の木の幹に、呪わしい者の髪の毛を仕込んだワラ人形を打ち付ける。
「死ね、死ね、死ねぇぇ!」
 カーン、カーン、カーン。鈍い金属音が鳴るたびに、釘がより深々と人形の心臓に突き刺さっていく。
 ――絶対に連れてゆく。あの薄情者を、六道輪廻の果てまでも。
 髪を振り乱しながら、悪霊は大口を開けて笑った。
 薄ぼんやりとした頬を、たらたらと血の涙が伝い落ちた。


「六道くん!?」
 悲鳴のような桜の声で、六文ははっと飛び起きた。電気は消えており、辺りは一面真っ暗闇だった。どこからか、鐘の鳴るような音が長く尾を引いて聞こえている。
「りんね様、桜さま――!」
 猫ゆえに夜目のきく六文は、闇の中でもすぐに二人の姿を探し当てた。
 一瞬、心臓が止まりかけた。
 二人は恋人同士のように寄り添っていたのだ。
 が、どうも様子がおかしい。
 りんねが苦しげな表情で胸を押さえていた。桜に肩を支えられており、やっとのことで身を起こしているという有様だった。肩を大きく上下させ、末期の息をつくかのように呼吸を荒げている。
 ――主は死の呪いをかけられているのだ。
 六文には一目でそれが分かった。そして、呪っているのがあの少女の霊であることも。
「真、宮――桜」
 黒猫は思わず息をのんだ。自らが虫の息になりながらも、主は彼女の身を何よりも案じている。
「六文と一緒に、逃げるんだ。この場所から……」
 六文の背筋がぎくりと強張る。黒猫が主を見捨てることなど出来るはずがない。彼女もきっとそう考えるだろう。
 案の定、桜は唇を噛み、首を横に振った。
 りんねの額に冷や汗が浮かぶ。
「ここにいては、危険なんだ、真宮桜。お前まで、呪われてしまうかもしれない。――頼むから、逃げてくれ」
 りんねは喉の奥から声を振り絞った。
「六文!早く、彼女を連れて逃げろ――!!」
 まるで血を吐くような声だった。
 忠誠を誓った主を救うべきか、それとも主が命よりも大事にしている人を守るべきか。
 黒猫の覚悟は、一瞬にして決まった。
「――行きましょう、桜さま!」
 化け猫に転じ、六文は桜のジャージの後ろ首をくわえた。驚いて振り返ろうとした彼女の身体が、ふわりと宙に浮く。彼の肩に添えられていた両手が、虚しく空を掻いた。
「待って、六道くんが――」
 六文の頭から、桜は身を乗り出した。闇に向かって手を伸ばす。けれどりんねはその手を握り返さなかった。
「早く行け、六文!」
 ふらふらと立ち上がりながら、りんねは闇を睨んだ。六文は知っていた。その視線の先に彼を呪う悪霊がいることを。
 そして――彼女を守るために、主が懸命に力を振り絞って結界をとどめていることを。
「六道くん一人、置いていけないよ!」
 彼女が声を張り上げる。それは身を切るように痛ましい声だった。六文も桜とまったく同じ気持ちだった。決して主を見捨てたくなどなかった。こんな窮地でこそ、傍にいて助けになりたかった――。
 それでも彼はりんねに背を向けた。悪霊の手の及ばぬどこか安全な場所へと、桜を連れていくことにした。
 ――彼女を守ってくれ。
 それが主の意思ならば、自分の感情を押し殺してでも従わなければならない。
 涙をのみ、化け猫は霊道の入り口に真正面から突っ込んでいった。
 二人が跡形もなく消えたのを見届けた瞬間、りんねの身体がぐらりと傾いた。
 天井から雨漏りが落ちてくる。時計の針が逆さに回る。水墨画がどろどろと流れ出す。闇の中から聞こえる高笑いは、誰そ彼時に出逢った魔物のものか、はたまた丑の刻参りに参じた女のものか――。
 しゃぼん玉が弾けるように、ぱちん、と結界が破れた。





To be continued


back




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -