The Devil ROTHBART



「りんねくん、僕と賭けをしてみない?」
 悪魔は賽を投げた。


 教室の窓の外には、鈍色の雲がもったりと垂れ込めていた。
 ただでさえ月曜日の一時限目というのは気だるくて仕方がないのに、この空模様ではますます陰欝な気分に陥ってしまいそうだ。
 古文教師による読経のように単調な「吾妻鏡」の朗読を、一年四組の大多数の生徒達は死んだ魚のような目をして聞き流している。
 頬杖ついて居眠りする生徒もいれば、教科書を立ててその陰で携帯電話をいじっている生徒もいる。それから、ノートの端に落書きする生徒、ぼんやりと空想にふけっているらしい生徒――。
 板書を写しながら、桜はひそかに溜息をついた。
 だらけるクラスメート達の気持ちがよく分かる。
 彼女も、今日は朝からどうも調子が出なかった。
 シャーペンの動きを止めずに、ちらりと横を一瞥する。
 今日も、隣は空席だ。
 彼が一時限目から登校することは、滅多にない。
 昼夜を問わず死神稼業に奔走している彼にとって、学校というのはそれほど優先順位の高いものではないらしい。
 ――遅刻ばっかりしてて、大丈夫かな。
 そんな桜の心配をよそに、今頃も彼はきっと、火焔と輪廻の輪が縫い止められた黄泉の羽織を翻して、あの世とこの世を飛び回っているのだろう。
 不意に、鞄のなかに詰め込んできたものを、桜は思う。
 朝、少しだけ早起きして作った弁当。昼休みに一緒に外のベンチで食べようと思って、おそろいで二つ、作ってみた。
 無駄にならなければいいのだけれど。
「じゃあ真宮、三行目のところから訳してみなさい」
「はい」
 名指しであてられ、教科書を手に桜は立ち上がった。
 ――早く来ないかな、六道くん。


「遅れてすみません」
 四時限目が終わる頃になって、彼はようやく姿を見せた。
「また遅刻だぞ、六道」
「すみません。明日からは気を付けます」
 怪訝な顔をする教師にぺこりと頭を下げて、りんねは席に着いた。
 机のなかを覗き込み、ふう、と息をつく。桜の方を向いて言った。
「……教科書、忘れた」
「見せてあげるよ」
 桜が快く申し出ると、彼は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、真宮桜」
「――」
 思わず、桜は目を丸めた。
 そんなふうに屈託なくりんねが笑うことは、あまりない。
 いつだったか、珍しく心の底から笑っていたように見えた時があったけれど、彼自身はそれを「営業スマイル」と称していた。
 いつも必要最低限の感情しかあらわにしようとしない、りんね。
 笑顔さえも、無駄使いはしない。
 そんな、どこか冷めたところのある少年だった。
 だからつい、こうやって笑いかけてくれることが物珍しくて、桜は聞いてしまった。
「六道くん、もしかして何か良いことでもあった?」
 自分の机を桜の机とくっつけながら、りんねはいつになく明るい表情で頷く。
「ああ。これから良いことが起こりそうな気がするんだ」
「これから?」
「そう。これから」
 りんねは桜の教科書の片端を、そっと手に取った。
 椅子を近付けたため、肩と肩が触れ合った。
 ただ教科書を見せてもらうだけにしては、どう見ても近付きすぎだった。けれどそのまま、桜にぴったりと寄り添ったままで、りんねは少しも離れようとしない。
 ――どうしたんだろう。
 桜は目だけを横に動かした。
 彼の目は教科書ではなく、彼女を見ていた。
 思わず、瞬きを忘れる。
 あまりにも澄んだ目をしていて、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。
「真宮桜の隣で、良かった」
 ちらりと白い歯を覗かせて、りんねは笑う。
「本当に良かった。――こうやって、いつでもお前を見ていられるから」


 昼休みが始まるやいなや、憤然とりんねの前に立った人物がいた。
「――六道、きさま!」
 メラメラと怒りの炎を燃やしながら、十文字翼はりんねに詰め寄る。
「後ろから見ていたが、さっきのあれは何の真似だ?」
「……あれ、とは?」
「とぼけるな!」
 白々しく肩を竦める恋敵に、翼は怒りを炸裂させた。
「教科書を見せてもらうことを口実に、真宮さんに馴れ馴れしくしてただろう!」
「ああ、あのことか――」
 りんねは腕を組み、不敵な微笑を浮かべる。
「別に、お前にとやかく言われる筋合いはない」
「何だと!?」
「――十文字。お前は真宮桜の何だ?」
 静かな声でりんねは尋ねた。
 翼は冷や水を浴びせられたような顔をした。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。お前は、彼女の何だ、と聞いている」
 りんねの目に、静かな炎がちらついた。
「……彼氏でもないのに、彼氏面するな。腹が立つ」
 言葉を失う翼の横をすばやく擦り抜けて、彼は教室を出た。


「お弁当、作ってきたの」
 いつものベンチに並んで腰掛けながら、桜はりんねに包みを手渡した。
「俺のために、作ってくれたのか?」
 大事そうに受け取って膝に載せ、りんねは目を輝かせる。
「前に約束したから。たまに作ってくるって」
 そう言って桜が微笑むと、ふいに彼は肩を揺らした。
「どうしたの?」
「――いや、何でもない」
 軽く首を振る。顔を上げて、りんねは嬉しそうに包みを解いた。
「うまい」
 心の底からの言葉に、桜は喜びを隠せなかった。
 つい、本音がこぼれる。
「良かった。今日、六道くんに会えて」
「――え?」
 りんねは目を丸め、箸の間から卵焼きを落とした。
「だってもし会えなかったら、六道くんのそういう顔、見れなかったから」
 桜は自分の弁当を見下ろした。誰に聞かせるでもない独り言のように、言う。
「――そんなふうに笑ってくれるのって、珍しいよね」
「……」
「喜んでもらえて、私も嬉しいよ」
「……」
「また、作ってくるね」
 彼はそっと目を伏せた。
 鈍色の空から、小雨が降り始め、アスファルトに点々と染みが広がっていく。
 りんねは食べかけの弁当を脇に置いて、おもむろに、ジャージの上を脱いだ。
 無言のまま、それを桜の頭に被せる。
「真宮桜――」
 桜は顔を上げた。
 次の瞬間には、もう目の前には何も見えなかった。
 身体を包み込んでくれる心地よい体温に、頭が朦朧とする。
 彼に抱き竦められていることに、気が付くのにしばらく時間がかかった。
「――好きだ」
 なぜかとてもつらそうな声で、りんねは告げる。
 その言葉の意味を頭できちんと理解するまで、また少し時間が必要だった。
「絶対に、他の誰にも渡したくない。だから、どうか、俺を選んでくれ――」
 切れ切れに、懇願するように彼は言う。
 桜は、身じろぎも出来ずに彼の腕に抱かれていた。
 まるで深い霧のなかにひとり立っているかのように、頭が真っ白だった。
 頭上で名も知らない鳥が鳴いている。
「もし、この思いを受け入れてくれるなら……お願いだ。手を、握ってくれないか」
 小雨よりもかぼそい声でりんねは囁いた。
 祈りを捧げるように、額の前で手を組む。
 抱擁から解放されて、桜はゆっくりと顔を上げた。
 頭に被っていたジャージが、するりと背中に滑り落ちる。
 胸の前で握られていた手が、ゆっくりと、彼の方に伸びる。
 ――が、彼の手に触れる前に、ふたたびもとの場所へと戻ってきた。
「ごめんなさい――」
 雨音の合間を縫って、その声はひっそりと彼の耳に届いた。
 目を開けたりんねは悲愴な顔つきをしていた。
「……なぜ、謝るんだ」
 息をつまらせる彼。桜がゆっくりと首を振る。
「私は、あなたを選べないから」
 彼女は地面に落ちたジャージを拾い上げた。砂を払い、雨に濡れたそれを、胸に強く抱き締める。
「――六道くん」
 桜は目を閉じた。
 しばらく思いに耽り、また目を開けて、まっすぐに彼を見据えた。
 眼差しに耐え切れなくなったように、彼は両手で顔を覆う。
 澄んだ声で彼女は尋ねた。
「六道くんは、どこ?」


 まるで、魔法がとけたかのようだった。
 雨に打たれる彼のあざやかな赤髪が、みるみるうちに黒に染まっていく。
 両手から顔を上げた彼の目も、太陽のように明るい赤から、夜よりも暗い色へと変わっていた。
「――いつから気付いていた?僕が偽物だということに」
 化けの皮を剥がれた悪魔は、あるべき姿に戻り、静かに尋ねる。
 コウモリのそれに似た翼が、背中から宙へ大きく広がる。
 桜は少し困ったように笑った。
「正直……ついさっきまで、全然気付かなかったよ」
 ふうん、と彼も笑った。
 腕を組みながら、猫のような目を細める。
「じゃあ、惜しかったな。あと少しで僕の勝ちだったのに」
「――勝ち?」
 脈絡のない発言に、桜が不思議そうな顔をした。
 その時、小さな鳥が、羽音を立てて二人の間に舞い降りた。
 鳥は、澄んだ声で高らかに鳴く。
 その林檎よりも赤い目を、桜はじっと見つめ返す。
 そして、ふいに笑い掛けた。
「おはよう、六道くん」
 その呼び掛けに――
 雨のなかを旋回していた鳥は、時がとまったかのように空中でぴたりと静止した。
 桜はアスファルトを見下ろした。
 先程まではなかった長い影が、そこにふり落ちた。
 白い靴の先が、一歩踏み出したのが目に入る。
「真宮桜」
 顔を上げると、見馴れた少年の姿が目の前にあった。


「お前の負けだな、魔狭人」
 少なからず優越感を匂わせる声で、りんねは言った。
「……まあ、今回はね」
 魔狭人は形ばかりは降参したように、肩を竦め、諸手を挙げる。
 話が全く飲み込めていない桜を一人置き去りにして、二人は静かに睨み合った。
 りんねはつい今朝方の出来事を思い起こす。
『りんねくん、僕と賭けをしてみない?』
 突然、何の前触れもなくクラブ棟に訪れた魔狭人は、何の前置きもなく、こう言った。
『あの子が見抜けたら、きみの勝ち。見抜けなかったら、僕の勝ち』
 一体、何を――とりんねが聞く前に、有無を言わさず魔狭人は賽を投げたのだった。
 狭いクラブ棟の部屋の中で、幾つものカンシャク玉が爆発した。
 おかげで、りんねは何が何やら分からなくなり――
 気が付くと、なぜか小さな鳥の姿になっていた。
 目の前で、りんねの姿になった魔狭人がにやりと笑った。
 自分の顔はこうも憎らしい表情を作れるものかと、りんねは怒りを煮えたぎらせた。
『邪魔だから、きみは散歩でもしてきなよ』
 そのまま鳥籠に閉じ込められ、霊道に放り投げられた。運良く、あの世へ使いに行っていた六文が拾ってくれて、籠から解き放たれ、この世へ戻ってこれたが。
 胸騒ぎがして学校に駆け付けてみて、さらに腹が立った。
 ――なんと、自分の姿をした悪魔が、真宮桜を口説いているではないか。
「許さんぞ、魔狭人」
 屈辱と焦燥にまかせて、りんねは鎌を振り上げた。
 魔狭人は宙に浮かび上がり、からくもその刃から逃れる。
「桜」
 呼ばれて、桜は魔狭人を見上げた。
「また、会おう――」
 彼女の目が大きく見開かれる。


 雨とともに、悪魔は海よりも深い空の底へと消え去った。





end.

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