目には目を、歯には歯を



「何をしに来たの?」
「きみを奪いに来たのさ」
 黒い翼をはばたかせて、悪魔は哄笑した。


 仕事を終えて帰宅した彼は、家の中の有様に愕然とした。
 まるで空き巣に遭ったかのように、小さなリビングの床にはありとあらゆる物が撒き散らされていた。テレビや電話は引っ繰り返り、写真立てのガラスはひび割れ、陶器の置物は粉々に砕け、飲みかけのココアなどもこぼれていて、足の踏み場もない。
 状況を飲み込めずしばらく呆然と立ち尽くしていた彼は、ごみの掃き溜めのような中に「あるもの」を見つけて、思わず持っていた鞄を取り落とした。
 それを拾い上げてみて顔からさっと血の気が引く。彼は障害物を足で押し退けながら、押し入れを目指した。掌にそれを握り締めたまま、必死に押し入れの中を探り始める。
 銀色の結婚指輪。彼女が肌身離さず身につけていたはずの物だ。
 それがどうして、こんなふうに打ち捨てられている。何故彼女はここにいない。
 彼にとって、答えは明快だった。
 向こうの世界から招かれざる客がやって来たのだ。
 箱という箱を掻き出しては引っ繰り返し、彼は焦りを募らせた。
 ――早く、早く見つけろ。でないと彼女が――。
 一番奥にあった箱を逆さまにする。
 探し物は見つかった。
 それは、柔らかな衣擦れの音を立てて、床に落ちた。


「結婚しよう」
 あの日のことを、まるでつい昨日のことのように覚えている。
 プロポーズというものは、夜景の見えるレストランとか、星空に映える海辺とか、そういう雰囲気のある場所でするものだとばかり思っていたけれど、彼はそういうことにはあまりこだわらないらしく、白昼の雑然とした街の真ん中で、まるでたった今思い出したかのように、隣の彼女へそう言ったのだった。
「死神をやめる。お前と現世で生きていきたいから」
 あまりにも突拍子もない発言で、聞いている方はどこまでが冗談でどこまでが本気なのか分からなかった。
 けれどその言葉を受けた当の本人は、嬉しそうに笑うのだった。
 花が咲くような笑顔。
 彼女のそんな笑顔は、今まで一度も見たことがなかった。
 心の底から幸せな時、人間というのはこういう表情をするものなのだろう。
 ――そうか、こいつは今幸せなのか。
 海よりも深い空の底を飛びながら、何度か頭を振るが、その笑顔が忘れられない。
 あの世には帰りたくないような気もすれば、この世にも留まっていたくないような気がした。
 地上の景色が遠退けば遠退くほど、脳裏にはあの二人の姿がより一層くっきりと浮かび上がり、心を締め付けた。
 ――恨めしい。
 小さい頃、死にかけたうさぎの魂を奪おうとして、あの死神に邪魔された。
 恨んでも恨みきれない彼が、今、掛け替えのないものを手に入れようとしている――。
 地獄の底で芋虫を踏んだような、鬼の金棒で頭を殴られたような、強い不快感と衝撃を覚えた。


「何をしに来たの?」
「きみを奪いに来たのさ」
 黒い翼をはばたかせて、悪魔は哄笑した。
 物取りに荒らされた後のような部屋の中、彼女は自分で自分を抱き締めるようにしてたたずんでいる。
 長い髪はかつてのようには編まずに、胸や背中に垂らしてある。
 化粧気はないのに、随分と大人びて見えた。
 初めて会った時からまだそれほど時は経っていないはずなのに――少なくとも悪魔にはそう思えてならないのに、どうして人間というのはこんなに育つのが早いのだろう。
 降って沸いた感傷を押さえ付けるように、悪魔は口角を吊り上げて笑う。
「――もう一度言う。僕は、りんねくんからきみを奪いに来た」
 彼女はじりじりと後退した。けれど二人暮しの狭い家の中、逃げ場があるはずもなく、あっという間に壁際に追い詰められた。
 挑むような眼差しで睨み付けてくる彼女。顎をすくい上げようとして、悪魔は頬に平手打ちをくらった。やはり一筋縄ではいかないか。細い両手首を掴み上げて壁に押し付ける。
 自由を奪われてもなお、彼女は怯えた様子を見せようとはしなかった。


「幸せそうだね、りんねくん」
 あれはいつのことだったか。
 仕事帰り、頭上から不意に揶揄するような声が降ってきたことがあった。立ち止まり目線を上げてみると、あの因縁の悪魔が空中にとどまりながら、彼を見下ろしていた。
「久しぶりだな、魔狭人。何の用だ」
 悪魔はぶっきらぼうな彼の質問には答えずに、目を細めてせせら笑った。わざとらしい猫なで声で言う。
「幸せそうだね、きみたち二人とも。――本当に」
「……」
「結婚、おめでとう」
 三回ほど、故意に間をあけた乾いた拍手を送る悪魔。無論、祝福する気など毛頭ないことを、彼は知っている。
「いったい、何の用だ?」
 怪訝な顔で尋ねると、
「別に、何も」
 喉の奥で押し殺したように悪魔は笑った。
「……今は、ね」


 欲しいものがあれば、誰かから力付くで奪ってでも手に入れる。
 それが地獄で培われた悪魔の美学だった。
「こんな所に連れてきて何をするつもりだ、と思ってるだろう」
 静かな部屋に、柔らかなその声は響き渡った。大きな窓の外には星一つない深い夜空が広がっている。遠くの方で月ほどの大きさをした赤い輪廻の輪が、ぽつんと浮かんでいるのが見える。
 彼女は窓辺に立ち、悪魔からは背を向けていた。ガラス越しに遠い輪廻の輪を見ていた。
「……気を失わせて誘拐するなんて、最低」
 吐き捨てるように彼女が言った。卑劣な悪魔のやり口に、さすがに憤りを抑えられない様子だった。
「それに、私の指輪をどこにやったの?」
 左手を握り締めながら、彼女は振り返った。悪魔が目を細めて笑った。
「ああ、あれか」
 ――目障りだから捨ててきたよ。
 その言葉に、彼女の眉がぴくりと動いた。
 握り締めていた左手を思い切り振り上げる。
 頬を打ちそうになったその手を、悪魔はしかと掴み取った。
「僕のことが嫌いだろ?」
 顔をぐっと近付けて、悪魔は囁いた。
「大嫌い」
 躊躇いなく彼女は言い放った。予想通りの答えに、喉の奥で笑いを押し殺す。
「――まあ、どう思われようが構わないさ」
 不意に、悪魔は真顔になった。


 黄泉の羽織を着て空を飛ぶのは、本当に久しぶりのことだった。
 死神をやめると決めた日から、鎌を手放し、羽織は押し入れに封印して、あの世との繋がりを断ち切っていた。契約黒猫は新たな主を捜し求めて死神界へ帰り、時々死神の祖母が訪ねてくることはあるものの、もう自分からあちらへ行くことはない。
 今の彼は人間そのものだった。
 彼自身が望み、彼自身が選んで、人間になった。
 恋に落ちた相手が人間だったから、自分も人間として生きていこうと思った。
 彼女と二人でありふれた家庭を築きたかった。
 まともな父親がいて、優しい母親がいて、可愛い子供がいて、食卓を仲良くみんなで囲む、そんな当たり前に幸せな家族になりたかった。
 自分が味わえなかった幸せを、いつか彼女との子供が産まれたら、存分に味わわせてあげたかった。
 彼女が産む子なら、きっと目に入れても痛くないほど可愛いに違いない――。
 そんな夢を思い描きながら、毎夜隣に眠る彼女の寝顔を見ているのが、彼にとっては何よりの幸せだった。
 ――決して奪わせはしない。
 一刻も早く、迎えに行ってやらなければ。
 唇を噛み締め、彼は水平線よりも遠い世界の果てを目指した。


 力付くで押し倒されそうになり、彼女は渾身の力で悪魔を突き飛ばした。
 部屋を飛び出して、人気のない長い廊下をひた走る。でも、走っても走っても出口に辿り着けない。
「無駄だ。きみはここからは出られない」
 後ろから、まるで逃げ惑ううさぎを追い詰めるのを楽しんでいるかのような声が追い掛けてくる。
 あっ、と彼女は小さな悲鳴を上げた。
 白いワンピースの裾が脚に絡まり、赤い絨毯に前のめりになって倒れこむ。
「そうやって逃げられると、ついつい追い掛けたくなるんだよな」
 彼女は唇を噛み締めながら後ろを振り返った。
 片足で彼女の影を踏みながら、悪魔がくすりと笑う。どんなに頑張って立ち上がろうとしても、身体がそこから先へ進めなかった。
 悪魔は片膝をついて、存外優しい手つきで彼女の頬に触れた。そのまま、頬に降り掛かる髪の一筋を指に挟んで、口元に運んでいき、唇を押しあてる。
「――きみは、あの時のうさぎの代わりだ」
 彼女に、というよりは自分に言い聞かせるように、悪魔はつぶやいた。
「りんねくんは僕からあのうさぎを奪った。――だから僕は、りんねくんからきみを奪う」
 目には目を、歯には歯を。
 奪われたのなら奪い返す。
 自分が失ったものよりもはるかに大きなものを。
 報復は、避けることの出来ない悪魔の本能。


 窓ガラスを蹴散らしてりんねが現れたのは、まさに危機一髪の状況下でのことだった。
 廊下の赤い絨毯に髪を散らす桜、彼女に覆いかぶさりその唇を無理矢理奪おうとする魔狭人。信じがたい光景を目の当たりにして、彼の頭に一気に血が上った。
「きさま、よくも――」
 怒気に勢いづいたりんねの拳を、魔狭人はひらりとかわした。
「残念、もう少しで奪えたのに」
 烈火のごとく怒る彼とは対照的に、飄々と笑う。
「きさま、それ以上余計なことを言ってみろ。翼までずたずたに切り刻んで、地獄の釜に放り込んでやる」
 桜を抱き起こしながら、鬼よりも恐ろしい顔をしてりんねは言い放った。
「失せろ!俺が鎌を出さないうちに――!」
 魔狭人の顔から、ふっと笑みが消えた。
「……やっと分かったかい?りんねくん」
 りんねは桜を背に庇いながら眉根を寄せた。
「他人に何かを奪われる悲しみと悔しさだよ。――きみは今、僕が恨めしくてしょうがないだろ?」
 黙って二人の応酬を聞いていた桜が、堪え切れなくなったように口を挟んだ。
「――どうして、そこまで過去のことに固執するの?」
 魔狭人は桜をじっと見つめた。そして、逃げるように視線を逸らした。
「うさぎのことは、小さい頃の話でしょう。なのに、どうしていつまでも――」
「……とられたのは、うさぎだけじゃない」
 独り言のように魔狭人は呟いた。桜には聞き取れなかったが、りんねは聞き逃さなかった。
 かつてないほどに腹が立った。魔狭人が桜と同じ部屋にいて同じ空気を吸っていることすら、堪え難く思えた。
「――よく聞け、魔狭人」
 敵意をあらわにりんねは宣告した。
 場の空気に緊張感がぴんと張り詰めた。二人の間にただならぬ雰囲気を感じて、桜は思わずりんねの腕にしがみ付く。
 彼は噛み付くような口調で言った。
「絶対に、渡さない」
 何を、とは聞かずとも、火花を散らして睨み合う魔狭人には、それが何のことかよく分かっていた。
「なら、奪い甲斐があるよ」
 りんねの目が怒りに燃える。
「ふざけるな」
「ふざけちゃいないさ。大真面目だ」
 魔狭人は牙を見せて笑った。が、その目は真剣そのものだった。
「渡さない、と言われると、ますます欲しくなるのが悪魔だからね」


 家に帰り着いても、りんねは桜にぴったりとくっついたまま、なかなか彼女を解放しようとしなかった。
「そろそろ部屋の片付けしない?」
「……いやだ」
 ベッドの上で後ろから彼女を抱き締めたまま、聞き分けのない子のように彼は首を振る。
「もう少し、このままでいたい」
 りんねは深いため息をついた。
 落ち込む彼を慰めるように、桜が後ろを向いてその頭を撫でてやる。
 どっちが危ない目にあったのやら、とりんねは苦笑した。
「明日は久しぶりに死神界に行って来るかな。大量の悪魔除けグッズが必要だ」
 白い指に指輪を通してやると、月の光を受けてそれは美しく輝いた。





end.

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