おとぎ話のつづき




 ある夏の日、ひとりの女の子が神隠しにあいました。
 森の奥にある赤いトンネルは、不思議の街への入り口だったのです――。


 会社からの帰り道には、たまに時間を見つけて書店に立ち寄ることにしている。
 入り口から入ってすぐの右手に見える児童書コーナー。そこに、お目当ての本はある。
 『ある夏の日』
 という名のその絵本。作者は平仮名で、
 『おぎのちひろ』
 と表記されている。
 その絵本を手に取る、ポニーテールにスーツ姿の彼女こそが、まさに『荻野千尋』その人だった。
 普通のOLとして働くかたわら、千尋は絵本作家として活動している。
 独特の世界観に定評があり、すでに何作か発表しているが、どれも安定の売れゆきだった。
 ――そんな千尋の処女作が、この『ある夏の日』だ。
 この物語は、かつて少女だった頃の千尋が体験したことにもとづいて生み出された。
 今もなお褪せない極彩色の記憶にさらに鮮やかな色を付けていくように、筆のおもむくままに筆を滑らせ、心をこめて描き上げた作品だった。
『このお話は、まだ終わっていません』
 最後のページに、千尋は手書きでこう書き記している。
『もしこの絵本を読んでくれているなら、どうかわたしを見つけて、会いにきてください』
 読者からの反響が一番多かったのが、この箇所だった。
「あれは誰に向けたメッセージなのかと、子供に聞かれました。教えてください」
 そんな要望もあれば、
「今から会いに行くよ。だから、ちひろちゃんの住所教えて」
 こんな冗談まがいのメールを出版社に送り付けてくる人もいた。
 それでも千尋は、読者から届いたメッセージにはすべて目を通すようにしている。純粋な誉め言葉にも、くだらない野次にも、そのどれかに彼から届いたものがあればと祈りながら。
 ――どうかわたしを見つけて。
 その一心で、筆を取った。
 このままでは会えずじまいになってしまうかもしれない。人の中に埋もれたまま、一生見つけ出してもらえないかもしれない……。
 だから、千尋は絵本に希望を託した。
 何とかして自分という存在を発信しなければならなかった。
 ――わたしはここにいるよ。わたしを見つけて、会いにきて。
 どんなに時間が掛かってもよかった。もう一度会って、あの時のお礼がしたい――。ただそれだけだ。
 千尋は絵本を胸に抱いて目を閉じた。
 もし見つけてくれたとしたら、彼はどんな姿で会いにきてくれるだろう。
 おじいさん?若い男の人?それとも小さな男の子?どれもありえるかもしれない。また会えるなら、どんな姿でもよかった。
 千尋はゆっくりと目を開ける。
 絵本の表紙は、不思議の街につながる、あのトンネル。
 今はもうどこにもない、向こうの世界への入り口。
 そのくすんだ赤色が、とても懐かしい。
「一度あったことは、忘れない――。そうだよね?おばあちゃん」
 千尋は小さな声でつぶやいた。

 きびすを返した彼女の肩が、誰かの腕とぶつかった。
「ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」
 すらりとした長身のその人は、軽く頭を下げたあとに千尋の顔を見下ろす。
 千尋は瞬きを忘れた。
 彼の視線が、さらに下へ落ちる。
「その本、買われるんですか?」
 千尋の胸に抱かれた絵本を指差して、彼は尋ねた。
「偶然ですね。実は、僕もその本を買いにきたんです」
「……あなたも?」
 震える声で千尋は聞き返す。絵本を抱き締める腕にいっそう力が入った。
「はい。姉の子供に、この本がほしいとせがまれたので」
 彼は優しい目をして笑った。
「あなたも誰かにプレゼントなさるのですか?」
 千尋は泣きだしたい衝動を懸命にこらえて、力一杯頷いた。
「はい。――あなたにプレゼントします」
「え?」
 その人は驚いたように目を丸めた。
 千尋はカウンターで早々と会計を済ませると、絵本の入った手提げ袋を彼に押しつけるようにして渡した。
 彼は最初は悪がってなかなか受け取ろうとしなかった。が、しまいには千尋の熱意に根負けして、何度も頭を下げながらそれを手に取った。
「お姉さんのお子さんにあげる前に、一度この本を読んでみてくれませんか?」
「僕が、ですか?」
「はい。ぜひ、あなたに読んでみてほしいんです」
 千尋は逸る心を抑えて、彼を見上げた。
「もしまたどこかでお会いしたら――その時にはきっと、感想を聞かせてくださいね」
 彼からの返事を待たずに、千尋は外に出た。
 駅に向かう人込みにまぎれて、都会の深い夜空を振りあおぐ。風が冷たくて、コートの襟を立てた。
 ――確信があった。
 きっとあの人は、わたしを見つけてくれる。
 だから、また会える。
 トンネルは閉ざされてしまったけれど――
 もう寂しくなんかない。
 あの人は同じ空の下にいる。





end.


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