花嫁 - 14 - サンはまたも気分を損ねていた。 日の暮れたあとの帰り道――アシタカとの間に、会話はまったくない。 アシタカはサンを振り返りもせずに、さっさと歩いていってしまう。藪を掻き分け、木の根を踏み、こだまを追い越しながら、まるで一刻も早く帰りたがっているかのように、早足で森を出ようとしている。 彼がよそよそしい態度をとっているのは明らかだった。広い背中から放たれる拒絶感が、サンには腹立たしくてもどかしい。 「こらっ、アシタカ!」 痺れを切らしたサンが吠えた。だが、アシタカは歩みを止めない。むしろ、彼女の声を受けてより一層足を速めるばかりであった。 一体、何なのだ――。 サンは歯軋りした。怒りのあまり、髪の毛が逆立つ。踏み締めた落ち葉が土に沈んだ。 草陰に潜んでいた猖猖達が、そんな彼女の様相に恐れをなしてきいきいと鳴きながら後ずさっている。 「――こっちを、向け!」 かっとなって、サンは胸にぶら下げていた玉の小刀をもぎ取った。それを、アシタカに向かって力任せに投げる。 振り向きざまに間一髪――頬を掠めそうになったそれを、アシタカは素手で掴み取った。 彼の目は、闇の中で炯々と光っていた。 その鬼気迫る様相に、サンは思わずたじろぐ。 「サン――」 地を這うように低い声で彼は呟いた。 「どうか、今は私を見ないでくれ……」 小刀を握り締めるアシタカの手が、小刻みに震えていた。掌を傷つけたのか、手首に血が伝い落ちている。 「どうしたらよいのか、私には分からない。この荒ぶる心を、どうすれば鎮めることができるのか――」 彼はサンから顔を背けた。 「見ないでくれ、サン。今の私は、煩悩に苦しむただの愚かな男――。こんな情けない顔を、そなたにだけは見られたくない」 「アシタカ……」 サンの顔が戸惑いにゆがむ。 「何故だ。お前は愚かな男なんかじゃない。なのに、何故そうやって自分を見下す?」 「いや、私は愚かな男なのだ」 アシタカは蝿を払うように首を振った。 「シシ神と寄り添うそなたを見て気づいた。私はじつに愚かしく浅ましい――」 森から、そなたを奪いたいなどと、願うとは。 突然、アシタカは、血の滴る拳を、渾身の力で自分の頬にめり込ませた。 「アシタカ!?」 サンは目を丸める。 自らを殴った衝撃で、彼が数歩よろけた。木にぶつかって、そのままずるずると腰を落とす。 アシタカは悲観したようにこぼした。 「この私には、サン。――そなたという娘は、あまりにも眩し過ぎる」 重い足取りで村に帰ってきたアシタカを、思いがけず出迎える者がいた。 「アシタカ様――」 一瞬、家の戸口に佇むその姿が、ほの白い亡霊のように見えて、アシタカは冷や水を浴びたような感覚がした。だがそれは亡霊ではなく、村娘のタエだった。 「お帰りなさいませ」 アシタカの姿を見つけると、タエはふらふらと危なっかしげに近寄ってきた。病気がちなせいで滅多に外に出られないため、相変わらず色白で、華奢な身体をしている。 アシタカは眉をひそめた。 「タエ、なぜここに?……夜風にあたっては身体に障るのではないか?」 「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、わたしは平気です」 タエは嬉しそうに微笑んだ。美人だが薄幸そうな面差しが、痛ましかった。 「うちでおかずを作り過ぎてしまいましたので、よろしければアシタカ様に食べていただきたくて……」 突き返すこともできず、差し出された器をアシタカは受け取った。まだ、底があたたかい。 「私を待っていてくれたのか。――すまない、こんな夜更けに待たせてしまって」 「いいえ、わたしがアシタカ様にお会いしたかっただけですから――」 アシタカは言葉を失ってタエを見つめた。清らかな月光が彼女の微笑みを照らしていた。 「タエ、そなたは今なんと……」 「――アシタカ様」 タエの手がアシタカの頬にそっと触れた。彼が自らの拳で殴ったそこは、赤く腫れていた。 「お怪我をなさっています」 「……」 「手当てを――させていただけますか」 消え入るようにタエが囁いた。 やや間を置いて、アシタカは静かに頷いた。 【続】 back |