望洋 | ナノ

望洋

 
 豊かに連なる山々の切り立ったところに、白亜の街・アマルフィがひろがっている。古えから街を見守る荘厳な大聖堂。初夏を思わせる弾けるようなレモンの香り。太陽の光を賜って紺碧に輝く地中海。
 雫は感嘆のため息を禁じ得ずに、バルコニーから見える景色を遠望していた。地中海を渡ったあたたかな風が白いワンピースの裾を柔らかくひるがえして、窓の開け放たれた部屋の中へと吹いていく。
「……夢みたい」
 瞳をとじて潮の香る風を顔に感じながら、雫は言った。バルコニーの木枠に寄り掛かって、地中海に背を向けていた聖司は、ふっと微笑んで手を彼女の頭の上に乗せる。
「綺麗だろ?」
「うん。とっても」
 肩の上で切り揃えられた癖のない黒髪がひとすじ、風に散らされて雫の唇に張りつく。それを指で払ってやると、聖司は微かに上気した彼女の頬に手を宛てがった。
「世界で一番綺麗な海岸、って言われてるだけあるよな」
「ほ、ほんとだよね……このまま時間が止まってしまえばいいのに。こんなに綺麗な景色、一生のうちにあと何回見れるかしら?」
 夢見心地につぶやく雫に、聖司は肩を揺らして相好を崩した。
「大袈裟だなあ。そんなに気に入った?」
「もちろん!こんなに素敵な街、気に入らない人なんていないよ」
「そっか。じゃあ、いつか二人でこの街に住むっていうのもいいかもな」
「……えっ?」
 思わぬ返答に目を丸めた雫ににっこりと笑いかけると、聖司は瑠璃色にきらめく地中海に眼差しを向けた。
「いつか俺が一流のヴァイオリン職人になったらさ、この街に俺と雫が暮らす家を買おう。地中海が見える崖の上なんかがいいな」
「ええっ!?」
「俺はアトリエでヴァイオリンを作るから、雫はこの景色を見ながら物語を書けばいいよ。ここなら、きっといい物語が思い付くんじゃないかな」
 クリスマスプレゼントを待ち望む少年のように目を輝かせながら語る聖司に、雫は目を白黒させながら訊いた。
「そ、そうなったら素敵だと思うけど、でもやっぱり私には夢みたいな話で……」
「……イヤなのか?」
 しょんぼりと肩を落として落胆する聖司の様子に慌てて、雫は言い訳がましく早口で捲し立てた。
「イ、イヤってわけじゃないけどっ!でも、私イタリア語なんかできないし!こうやって旅行してても、聖司がいなかったら買い物すらできないんだよ?イタリア語どころか英語だって全然わかんないし…!」
 その言い訳に、聖司は少し安堵した表情で雫の肩に額を当てた。
「よかった。俺と暮らすのがイヤなのかと思った」
「そっ、そんなことないよ!」
 とんでもないとばかりに、雫は即座に否定した。聖司はのろのろと顔を上げて、彼女を見下ろした。暫くの間、互いの心を探り合うような眼差しがぶつかり合う。
「夢みたいな話だなんて言わないでくれよ。……俺達、いつか結婚するんだからさ」
 少しいじけたような口調で聖司は言った。核心をつく言葉に雫は小さく息を呑み、恥ずかしそうに視線を落とす。──その左手を彼はおもむろにとった。
「……中学のときにした約束、忘れてないよな?俺が一流のヴァイオリン職人になったら、結婚してくれるって」
「忘れるわけないよ…」
 頬を桜色にした雫が、肩をすぼめて蚊の鳴くような声でつぶやいた。満足気に微笑んだ聖司が左手の薬指に唇を落とすと、今度は突然泣きそうな顔になる。
「今はまだ渡せないけど、いつかきっと渡すから。その時まで、俺を信じて待っててほしい」
 主語はなくとも、その言葉が何を指しているかは明確だった。嬉し泣きを堪えて、雫は何度も頷いてみせた。
「後のことはまだ考えなくてもいい。今は、お互いに自分が出来ることを精一杯やろうな」
「うん…!」

 天辺に上り詰めていた日が傾き始める。バルコニーには、押し寄せては引いてゆく白波のように、強弱をつけたヴァイオリンの旋律が優しく響いていた。
 座りながらヴァイオリンを弾く彼と背中合わせでまどろむ彼女。子守唄のメロディーにかき消されそうな微かな寝息を聞きながら、青年は演奏する手を止めて頭を後ろに傾けた。
「……なるべく早く、迎えに行けるように頑張るから」
 健やかな寝顔を見下ろしながら、彼は耳元にそう囁いた。眠り姫はよほどいい夢を見ているのか、幸せそうな笑顔を浮かべたまま、身じろぎ一つさえしない。
 くすっと笑いをこぼすと、彼は再び前を見据えた。夕日に染まる景色の遥か極東、生まれ育った祖国に思いを馳せながら、張り詰めたG線を指でなぞる。茜色の空をうつした地中海の遠洋には、無数の小さな船が漂っている。
 再び旋律を奏で始めた。思い出の曲、カントリーロードを弾きながら彼は思う。
 ──いつか彼女もこの街で、この海を見渡しながら、この歌を口ずさむんだろうか。同じ景色を見つめながら、同じ故郷に思いを馳せる時が来るのだろうか。

 



end.


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