四面楚歌 | ナノ

四面楚歌




 東から朝が訪れた。
 どこまでも青く澄んで清らかなその川の奥深く、龍神と人間の夫婦が住まう龍宮城「千花玉宮」は、昇りはじめた朝日を浴びて燦然と光り輝いている。
 宮城のなかではすでに肩掛けをした龍女達がゆるゆると動き回っており、主人達の洗面や着替え、朝食の支度に追われている。
 しかし、いまだ誰も主人たる龍神ハクとその妻千尋が眠る閨房を訪れていない。普段ならもうとっくに二人を起こしている時間なのだが。千尋付きの龍女水蓮すらも、さっきからその戸を叩くのをためらっている。
 なぜ彼女達は躊躇するのか。その原因は、部屋の中から漂う不穏な空気だった。

「いいかっ。千のことは、あたいらが連れて帰るからな!」
 いきなり怒声を発したのは、狐娘のリン。油屋で白拍子として働いている、かつての千尋の姉貴分だ。
「これ以上てめえの所にこいつを置いておけるかっ」
 満身創痍、寝台で一糸纏わぬ姿でぐったりと眠る千尋を目の当たりにして、リンは頭に血が上ったのだろう。昨夜この寝台で繰り広げられた秘事の模様を想像するのはあまりにたやすい。
「待て、リン。そう癇癪を起こすな」
 結わえていない長い髪を掻き上げながら、困り顔でハクが言う。寝台から上半身を起こした彼もまた、生まれたままの姿だ。
「新年早々、人様の閨(ねや)に挨拶もなしに上がり込んでくるとは……まったくそなた達は節度というものを知らぬのか」
 玉をちりばめた寝台から滑り降り、裸身に長い衣をさらりと纏いながらハクは憂欝な溜息をこぼした。
 リンの傍に控えていた坊が、聞き捨てならないと言いたげに、ふんと鼻をならす。
「お前に『節度』がどうとか言う資格があるかよ。この、万年発情龍」
 ハクは眉をひそめた。油屋の経営者の一人息子は、ここ数年で見違えるように成長し、今ではあの巨大な赤ん坊だった頃の姿など見る影もない。近頃はこうして彼に歯向かってくるようになり、なんとも小憎らしい。
 腕を組みながら、ハクは坊を睨む。
「愛し合う夫婦が互いを求め合うのは、必定ではないか。昨夜は一年分の積もり積もった愛を確かめるために――」
「度が過ぎてるんだよ、ハクのバカ」
 ハクにとってたちが悪いのは、この坊が上司の愛息子であることだ。今でも油屋の帳場係として働いている彼としては、この少年をあまり無下にはできない。
 それに坊は、自分を初めて外の世界に連れ出してくれた千尋を、とても気に入っていた。だからどうも千尋を奪ったハクを恨んでいるふしがある。いつか千尋がハクに愛想尽かす日がやって来ないかと、そう思っているに違いない。リンやカオナシ同様、坊もハクにとっては気の抜けない天敵なのだ。
「あ……あ……」
 物言わぬカオナシが、遣り切れない表情のハクを見てにやにや笑っている。いい気味だと思っているのだろう。前に襲来してきた時には門番に追い返させたのに、今回は千尋のお咎めによって門番が動かず、みすみす侵入を許してしまったようだ。
 ハクは寝台で眠る千尋を見つめながら、せっかくの年明けの朝を邪魔された怒りにめらめらと燃えた。まるで絵に描いたような四面楚歌。天敵達が、揃いも揃って愛する千尋をねらっている。
「そなた達に千尋は渡せない。千尋は今日は私と二人きりで過ごすのだから……」
 せっかくの正月だ。今日一日くらいまるまる千尋を独り占めしたって、バチは当たるまい。ハクはにやりと笑った。何事か口元で小さく呟いて、両手を高く上げる。
 リン達は、ハクがまじないを使ったことに気づく間もなかった。一瞬のちには川のほとりで、三人揃って転がっていた。ふたたび川に入ろうと試みても、水面に跳ね返されてしまう。川の主ハクが何人も入れぬように、結界をほどこしたのだ。
 悔しさに地団駄踏む三人。しかし川の意志は固く、その日決して彼らをあの龍宮城へ通すことはなかった。


「……おはよう、千尋」
 耳元で優しく囁かれて、千尋は背中を震わせた。彼女は夫の甘い声に弱い。
「新しい年だよ。あけましておめでとう」
 寝具にするりとハクが入ってくる。まだ夢見心地のまま千尋が頷くと、ハクはにこりと笑って、寝具ごと彼女を掻き抱いた。
 千尋の目がはっと覚める。が、時はすでに遅かった。ハクが上から彼女を見下ろしていて、二人とも昨夜と同じ、一糸纏わぬ姿だった。
「ハ、ハクっ、何やってるの!」
 慌てて身体を隠そうとする千尋の手首を、ハクはつかんで枕に押し付けた。面食らう千尋に彼は悪びれなく微笑む。
「何って、もちろん姫始めだよ」
「ええ!?」
「今年もたくさん愛し合おうね、千尋――」

 部屋の外では、水蓮を始めとする龍女達がやれやれと苦笑していた。
 新年の飾り付けも衣裳も食事の用意もとうに調っているが、きっと主人は今日一日、この閨房から姿を現さないだろう。





end.
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