逢魔  - 6 -




 うろうろと、部屋の外を悪霊が徘徊している気配がする。りんねの張った結界にほころびがないかを、執拗に探っているのだろう。
 ぼんやりとともる常夜灯を見上げながら、りんねは神経を研ぎ澄ませている。
 ……悪霊に付け入る隙を与えてはいけないのだ。心を強く持たなければならない。
 彼が挫ければ、結界がたちどころにほころびてしまう。そうなれば、部屋に悪霊の侵入を許すことになる。
 ――そして真っ先に桜が狙われるだろう。
 悪霊に指一本触れさせるわけにはいかない。なんとしても、彼女のことは守り抜かなければ。
 断固たる意志をもって、りんねは二言三言の梵語をつぶやいた。目には見えない結界がより一層強度を増した。悪霊の気配が遠退くのが感じられる。
 ひとまずは安心だ。胸を撫で下ろした彼の耳に、ふいに囁くような声が聞こえた。
「――六道くん、起きてる?」
 りんねは驚いて布団から上半身を起こした。てっきりもう寝ているとばかり思っていた桜が、薄明かりの下、しっかりと目を開けて彼の方に顔を向けていた。
 掛け布団を無くした六文が、うめき声を上げて寝返りを打つ。りんねは慌てて彼に布団を掛け直してやった。それから居住まいを正して桜に向き直る。桜も布団から半身を起こした状態でいた。
 二人はしばらくの間、無言で見つめあった。
 外から風が激しく吹き荒ぶ音が聞こえてくる。嵐か台風が来ているのだろうか。あるいはあの憐れな悪霊が、冥途の果てから呼んだ恨みの風かもしれない。
 ――心無い男。
 そう罵られたとしても、しかたがない。ここまで彼女を巻き込んでおいて、これ以上黙っているわけにはいかない。
 それに、桜の目はまっすぐにりんねを見ていた。まぎれもなくそれは、ありのままの真実を知ろうとする眼差しだった。
 彼女にごまかしは通用しないだろう。真実を隠そうとして嘘を言えば、不正をきらう彼女はきっと彼にひどく失望する。
 ……それだけは耐えられない。
 りんねはついに、重い口を開いた。
「これは因果応報だ。――俺は、あの悪霊に恨まれて当然のことをした」
 自分を戒めるように、彼は強く目を閉じる。
 脳裏に薄暗い墓地の景色が浮かび上がる。闇にとけそうな墓石。くたりと首を折った菊の花。か細いため息となって天へ昇る線香の煙。からすの鳴き声。
 あの日肌を打った雨の冷たさが、ひやりとよみがえった。


 誰そ彼時、逢魔が刻――。昼と夜の境界が闇にぼかされていく刻限を、人はそう呼ぶ。
 一年前のあの日、あの時間に、りんねは一人きりでこの六遠寺を訪れていた。亡き祖父の墓参りのためだった。ここは、六道家の菩提寺なのだ。
 かけがえのない家族をなくしたばかりの彼は、途方に暮れ、先の見えない闇のなかにいた。祖父の眠る墓の前で、冷たい雨に打たれながらただただ無常な現世を恨んでいた。
 その負のオーラに引き寄せられるかのように、あまたの亡霊が姿を現しはじめた。あの少女の霊もそのうちの一体だった。未練を残し現世に縛られた憐れな魂たちは死神の救済を求めていたが、あの時のりんねには応じる気力すらなかった。それを知って霊たちは失意し去っていったが、あの少女だけは執拗に食い下がった。
 彼女はりんねのとらわれていた闇に気付いていた。
 ――孤独。
 六道輪廻には誰も連れてはゆけず、人はみな独りぼっちなのだと彼女は言った。そしてそんな人生は悲しいと嘆いた。無縁仏として葬られた彼女もまた、孤独のとらわれ人であり、彼女は自分に寄り添ってくれる存在を求めていた。
 りんねは嫌気がさした。亡霊と共に孤独に落ちるなど耐えられない。
 だから依代人形を置き去りにして、自分は山を下りた。依代人形と幽霊がどうなろうと、構いはしなかった――。


「俺はあの霊をないがしろにしたんだ。きちんと向き合ってやろうとしなかった……死神の仕事よりも、自分の感情を優先してしまった」
 心から悔いた様子で、りんねはうなだれる。膝の上でこぶしを握り締めた。
「あの霊は俺のせいで悪霊になってしまったんだ。でも、俺は救ってやることができない。あの霊に心から寄り添ってやることはできないから……」
 そう告白する彼は小さく震えていた。途方もない無力感と、自分への呵責に彼はむしばまれていた。
「――俺に失望したか、真宮桜」
 絶望的な気持ちで問い掛ける。顔を上げることがりんねは怖ろしかった。もし彼女の目に失望の色がありありと浮かんでいたりしたら、きっと打ちのめされて永遠に立ち直れないだろう。
 重い沈黙が帳をおろした。風の轟音が障子を揺さぶっている。りんねの心も揺れに揺れている。やはり言わなければよかった。いや、言わなければ彼女に嘘をつかなければならなかっただろう。
「……六道くん」
 桜は静かに彼の名を口にする。その声音は存外に柔らかかった。
「話してくれて、ありがとう」
 りんねは驚いて顔を上げた。その頭を、桜が腕のなかにそっと抱きとった。額が彼女の肩に押し当てられる。燃えるように赤い髪を、小さな手が優しい手つきで撫でる。
「失望なんてしないよ。誰にだって、失敗はあるんだから……」
 りんねの身体から徐々に力が抜けていった。ぱんぱんに張った風船が空気を失ったように、空っぽになって桜に重みを預ける。桜はその重みを受けとめるように、りんねを抱き締めた。
「――嫌われるかと、思った」
 あえぐようにりんねは言う。
「お前にだけは知られたくなかった。俺の過ちも、弱さも――」
 桜が穏やかに微笑んだ。
「間違って何がいけないの?弱くて、何がいけないの?……六道くんは生きてる人間なんだよ。いつも正しくなくたって、強くなくたっていいんだよ」
「真宮桜……」
 ――そう言ってくれる人を、あの日からずっと待っていたような気がする。
 りんねは遠慮がちに桜を抱き締めた。彼女の身体は小さくて柔らかい。女子はみんなこうなのだろうか。いや、きっと彼女だからこそこんなにも可愛らしく、心安らぐのだろう。
 りんねは桜の肩口に顔をうずめた。えもいわれぬ幸福感が心に満ちる。できることなら永遠に、こうしていたかった。





To be continued


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