Silent Night



 机の上に置いたデジタル時計が、じきに十一時を告げようとしている。
 もう小一時間ほども睨めっこしている問題集から顔を上げて、千尋は大きく背伸びをした。欠伸を噛み殺そうともせずに、椅子の背にもたれてうしろに仰け反る。
 難しい数学の問題をずっと見ていたせいで、ひどく目が疲れていた。指でまぶたを押さえながら、彼女は細く息をつく。
 中学三年のこの冬、千尋は高校受験を目前にひかえていた。
 受験生に冬休みはない。休暇にはいってからも、塾の冬期講習に通い、自宅学習に励み、昼夜を問わず机にかじりついていた。
 ――今日が十二月二十五日のクリスマスだということすら、覚えたての英単語や数式がぎゅうぎゅうに詰め込まれた千尋の頭のなかでは、はるか片隅に追いやられてしまっていた。
 かろうじて両親とクリスマス料理をつつきはしたものの、団欒する間もなく二階の自室に戻ってきて、こうして難問に悪戦苦闘している。
 口のなかにはまだクリスマスケーキのクリームの甘さが残っていた。千尋はそれをすすごうとして、コーヒーのマグカップに口をつける。
「ん?」
 眉をしかめて、彼女はマグのなかみをのぞいた。ついさっきまで並々に注がれていたはずのコーヒーが、一滴残らず消えていた。
「私はコーヒーはきらいだ」
 驚いて振り返ると、背後に目元の涼しげな美しい青年が立っていた。肌が雪のように白く、胸まで伸びたくせのない髪は深い緑色をしている。真冬にもかかわらず、相変わらず定番の白い水干を着ていた。
「ハクがきらいでも、わたしは好きなの。コーヒーは眠いときに目を覚ましてくれるんだよ?」
 千尋は上半身を後ろにひねり、不満げに唇をとがらせた。
「ハクが消したんでしょ。わたしのコーヒー」
「うん。キスが苦くなるからね」
 にっこりと笑いながら、ハクは千尋の顎を指ですくい上げる。整い過ぎた恋人の顔を、千尋は至近距離からまじまじと見つめた。
「ねえ、油屋から出てきちゃって良かったの?年末のこの忙しいときに」
「大丈夫。式神を残してきたから」
 懐から取り出した人型に切られた紙をひらひら振りながら、ハクはのんびりと答える。
「……ハクって、湯婆婆から教えてもらった魔法を悪用してない?」
 あきれ顔で千尋が言うと、彼は形のいい眉を持ち上げた。
「何を言う。これはまじないの有効活用というんだよ、千尋」
「……」
 千尋はまだ腑に落ちない顔をしている。
「わたし、受験勉強があるからクリスマスは忙しいって言ったよね?」
「うん。でもそなたに会いたくてね、いてもたってもいられなかったんだ」
 悪びれもなくハクは言う。案外欲求に忠実な男なのだ。とりわけ千尋のことに関しては。
「会いたいから会いにきた。それではいけない?」
「べ、別にいけなくはないけど」
 千尋は今更ながら、恥ずかしくなって顔を赤らめる。
「わたしだって、本当はハクに会いたかったよ?せっかくのクリスマスだし。でも、今は勉強しなきゃいけないから――」
 言葉はそこで途切れた。ハクの唇が、彼女の唇をそっと塞いでいた。
「――ありがとう」
 小さな声で彼がささやく。
「会いたかったと言ってくれて、ありがとう。その言葉が最高の贈り物だよ」
「ハク……」
 千尋は心を打たれて椅子から立ち上がりかけた。ハクが優しく微笑みながら、その肩を押しとどめる。
「突然会いにきたりしてすまなかったね。私はもう帰るから、そなたは勉強の続きをおやり」
 ハクはひとさし指を振った。空だったマグカップに、一瞬で温かいコーヒーが満ちた。
「ただし、夜更かしはほどほどに。……でないと私が寝かしつけに来るからね?」
「わ、わかった、ちゃんと寝る!寝ますから!」
 千尋は慌ててうなずいた。夜更かしを理由に寝床に忍び込まれてはたまらない。
 そんな彼女を見てハクは楽しそうにくす、と笑った。
「なら安心だ。あまり無理せずに頑張るんだよ」
 もう一度名残惜しむように千尋の唇にキスを落としてから、ハクは窓枠に乗った。冷気をあびながらまっすぐに前を見る彼の背に、千尋が言う。
「メリークリスマス、ハク!」
 振り返り、目を細めて彼がうなずく。
「メリークリスマス、千尋」
 ハクは龍となって星の散る夜空を飛んだ。千尋はかなたにその姿が見えなくなるまで、見送り続けた。
 街に白い雪が深々と降っている。明日の朝にはきっと、辺り一面が雪景色になっていることだろう。
 厳かで静かな夜。聞こえるのは、千尋自身の吐息がこぼれる音だけだ。
 千尋はまた椅子に腰を落ち着け、マグカップに口をつけた。コーヒーに砂糖がふんだんに入っていて甘い。きっとハクの仕業だろう。彼女は苦笑する。 
 ふと、机の上に目がいった。時計のとなりにさり気なく置かれたスノードーム。逆さにしていないのに、上から雪が落ちている。中には本物の空が浮かんでいた。明日の朝になったら、きっと澄み渡った青空を映し出してくれるだろう。
 千尋は球体のガラスを弾いた。もう一息、頑張ろうと思った。





end.

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