remnant  act.7




 その日の放課後、乱馬とあかねは連れ立って小乃接骨院をたずねた。
「いらっしゃい、乱馬くんにあかねちゃん」
 玄関口で東風が出迎えると、乱馬は突然これみよがしにあかねの肩を抱き寄せた。あかねは目を見開いて彼を見上げる。無理をして作ったような、不自然なほど明るい笑顔を、乱馬は東風に向けていた。
「すいません、今日はちょっと遅くなっちまって」
 乱馬は技巧がかった口調で続ける。まるであかねとの仲の良さを誇示するかのように。
「俺たち、デートしてたんだ。さっきまで商店街んとこで。そしたら偶然同級生のやつらに会っちまったんだよ。相変わらずバカップルだな、っていわれたぜ」
「――へえ。そうなんだ」
 東風は眼鏡の奥の目を細めて微笑した。乱馬をまっすぐに見据え、平淡な調子で言う。
「君たちは本当に仲が良いからね。傍から見たら、誰もが羨むお似合いカップルだよ」
「へへっ。照れるな、先生からそんなふうにいってもらえると」
 だが、言葉に反して乱馬の表情は真剣そのものだ。照れるような素振りはみじんも見せない。
 そして東風も、もはやあるかなしかの微笑みを完全にかき消していた。唇を一文字に引き結び、挑戦的な乱馬のまなざしを真正面から受けとめている。
 ふたりの男たちの間で、あかねの戸惑いがちな視線が往復した。場にわだかまり始めたこの不穏な空気を、一体どうしたらいいのだろう。とはいえ、不穏分子そのものの自分に何ができるのか。彼女は切羽詰まるあまり、息苦しささえ覚えた。
「乱馬……」
 逞しい腕を引いて、呼び掛ける。乱馬は視線をすっと動かして、あかねに落とした。
「帰ろう、乱馬」
 からからに渇いた喉から、あかねは声を絞りだす。乱馬と一緒に逃げ出してしまうより他に、この状況を打開する方法はないように思えた。
 乱馬が彼女に何かを言い掛けた。が、それよりも先に、東風が口を開いた。
「ごめん、乱馬くん」
 あっさりとした物言いだった。何に対しての謝罪かわからない、とばかりに乱馬は眉をひそめる。
 東風は眼鏡の奥から彼に真摯な眼差しを送りながら、言葉を続けた。
「僕は君に謝らなくてはいけない。なぜなら乱馬くん、僕は君を裏切っているから」
「……俺を裏切ってる?どういう意味だよ」
 乱馬がかすれた声で聞いた。接骨院の軒先を、豆腐屋が喇叭を吹きながら通り過ぎていく。その喇叭の音が遠退いていって完全に聞こえなくなってから、東風は静かに告白した。
「乱馬くん。僕はね、君の大切なものに恋い焦がれてしまったんだ」
「――!」
「おまけに僕は、君からそれを奪いたくてたまらない。……奪って、僕だけのものにしてしまいたい」
 凍り付いた乱馬の顔から、東風は視線を滑らせる。氷より冷たい雨に打たれたあの日から、彼の心をとらえて放さない、その優しく愛くるしい少女へと。
「あかねちゃん」
 東風はあかねの手をとった。目線の高さまで上げて、白くすべらかなその手の甲に、そっと唇を押し当てる。
 彼は目を閉じて、囁くように言った。
「君が好きだ。――誰にも渡したくないくらい」
 それはまるで痛みを堪えるかのような声音だった。乱馬を、あかねを、そして東風自身を傷つけることの痛み。
 なぜブレーキをかけられなかったのか。なぜ優しい兄のような存在のままでいられなかったのか。自分に対する憤り、呵責の衝動が心に満ちる。
 それでも、一度言葉にしてしまった思いは一人歩きを始めてしまう。
 もう、誰にも止められない。東風自身にさえも。
「あの人の面影を追い求めてるとか、そういうことじゃないんだよ」
 あかねのガラス玉のような目に、涙が浮かんだ。きれいな目をした子だ。今更ながら、東風は思う。
「……ずるいな、東風先生は」
 それまで俯いて黙っていた乱馬が、ぽつりと呟いた。顔を上げ、今にも泣きそうな目で、東風を睨む。
「ずるいよ。先生があかねにそんなこと言うなんて」
「……乱馬くん」
「ふざけんなよ。そんなやり方、あるかよ。ちくしょう……!」
 乱馬は震える拳を強く握り、後ろに引いた。殴られるかもしれない、と東風は直感する。だが彼は逃げなかった。逃げも構えもせず、ただじっと、微動だにせずに、怒りにまかせた乱馬の鉄拳が見舞うのを待った。
「だめ、乱馬――!」
 拳が空を切った瞬間、あかねの悲鳴のような声が上がった。
 乱馬は、自分の拳で自分を殴っていた。
 赤くなった頬を押さえながら、彼が絞りだすように言う。
「なんで逃げねえんだ。先生」
「……」
「なんでだよっ!」
 素早くきびすを返して、乱馬は走り去っていった。後を追おうとしたあかねの背を、東風の痛切な声が追い掛ける。
「ごめん、あかねちゃん――!」
 あかねは振り返らなかった。涙が溢れて止まらなかった。乱馬の背中が涙でにじんでよく見えない。
 あの日と同じ、冷たい雨が頬を打つ。
 小さい頃、雨上がりによくかすみと探した御天道様が、今はどこにも見当たらなかった。




To be continued


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