浦島太郎 薫は衝撃を受けていた。 寝耳に水だった。 同じ学部生で仲良しの荻野千尋に、あんなに見目麗しい男がいたなんて。 しかも、あろうことかあの男は自分と千尋が「夫婦」なのだと言い張っていた。 彼氏だとしても相当な打撃だっただろうに、旦那などと言われては――。 たまったものじゃない。 シャーペンをくるくる回しながら、薫は盛大な溜息をつく。 ……なんか、眩しいな。 キャンパス内にある図書館の窓際の席は、勉強する時の薫の定位置だった。そこは太陽の光がいちばんよく当たる。 机の上に広げた分厚い文献の数々にも、白い光がこうこうと照りつけていた。 課題はあと一息で終わる。だからさっさと終わらせてしまえばいい。 けれど、どうもやる気が起きない。 「あの」 物憂げに窓の外を見ていたら、ふいに声をかけられた。知らない女子だった。 「薫くん、だよね?千尋とよく一緒にいる……」 「そうだけど。何?」 千尋の友達かな。頬杖をついたまま薫が顔を見上げると、その女子はにっこりと笑った。 「もしよかったら、メアド交換してくれないかな?」 「君と?」 「うん。薫くん頭いいから、勉強教えてもらえたらなって」 「……」 「……あっ、でもそれだけが理由じゃなくてね。私、薫くんと、おしゃべりしてみたくて」 しかし薫はあまり彼女の話を聞いていなかった。意識は千尋のことに釘づけになったままだ。 神様とか龍とか、そういうありえないものの存在を信じている千尋。 科学で解明できないようなオカルトは絶対に信じない現実主義者の薫とは、まるで逆の彼女。 この大学に入れたからには、千尋もそれなりに頭がいいはずだ。実際薫もそれを知っている。 なのにどうして千尋は、水中に楼閣をつくるような「ありえない話」をしたがるのだろう。 薫が千尋に興味を持ち、仲良くなった理由はそこにある。千尋のことがわからなくて、もどかしいのだ。 ――そんな千尋に、男がいた。 「ねえ、ちょっと。聞いてる?」 不機嫌な声がして、薫ははっと我に返る。さっきの女子がまだいた。心ここにあらずの薫を吊り目で睨んでいる。 「ごめん。メアドだっけ?」 ジーパンの尻ポケットにある携帯を慌てて出そうとする薫。 いきなり、彼女はその手首をつかんだ。女とは思えない程の力で締め付ける。 「ちょっ、あの、メアドは……?」 なんだこの怪力女、と面食らいながらも薫が聞くと、 「いらぬわ」 その女子は吐き捨てるように言った。 「琥珀主に頼まれたゆえ仕方なく口説いてやったというに、なんじゃこの無礼なおのこは」 いきなり話し方が古風になった。かと思うと、彼女の身体から強烈な光が発せられた。目も眩むような光だ。 「なんなんだ、あんた!」 薫はつかまれていない方の手で目を覆いながら、叫んだ。 彼女は声高らかに言った。 「わらわは龍王公主、乙姫。大海龍王がむすめなり」 「――はぁ!?」 「そしてそなたは、浦島の太郎じゃ」 乙姫は赤い唇でにっと笑った。 「さあまいろうぞ、薫。わが父上の治められし龍宮城へ――」 薫は強く手をひかれた。意志に反して、足が勝手に床を離れた。身体は風船のように軽々と浮き上がり、天女のような格好をした女に導かれるがままに宙を漂いはじめる。 ……夢だ、夢だ、こんなの絶対に夢だ! 薫はかたく目を閉じた。 どこかで、千尋の声が聞こえたような気がする。 机の上から書きかけのノートがすべり落ちる。 『薫 航太郎』 そのノートを、即座に誰かが拾った。 えもいわれぬ心地よい感覚が、薫の全身を包み込んでいる。 夢の中を漂っているのか、それとも水の中をたゆたっているのか――。そのどちらともとれるような感じがした。 誰かがかたわらでくすくすと笑っている。 こぽ、と水泡が弾ける音がする。 薫はふたたび眠りに落ちていった。 どこかからゆったりとした楽の調べが流れてくる。 琵琶の弦をはじく音、笛をふく音、鼓をたたく音――。すべての音が交じり合って、骨の髄まで染み入るような美しい旋律を作り出している。 薫はまだ目を閉じたまま、感嘆の溜息をこぼしている。 どうやら寝心地のいい寝台に横になっているようだ。全身がふかふかの感触に包まれている。 とくに、頭の後ろにあるものの感触がたまらない。 まるでパンヤをたくさんつめ込んだ枕のようだ。柔らかくて頭が埋もれてしまう。 薫はその枕に頬をすり寄せた。絹のようになめらかな肌ざわりがする。 ――わあ、と誰かが言った。ついで、誰かが小さく吹き出した。 ……なんだ? 薫はぱっちりと目を開けた。 真珠や水鳥の羽をふんだんにあしらった天蓋つきの寝台。天井には宝石のちりばめられた星座図が広がっている。 「……やだっ、どうしよう。起きちゃったよ!」 「諦めなさい、千尋。彼にはもう隠し通せないよ」 「ハクのせいでしょ!」 薫は声のする方に視線を動かした。 千尋と、ハクという男が、薫の寝顔を覗き込んでいた。 目を瞬きさせる薫に、千尋がぎこちなく呼び掛ける。 「か――薫くん」 「……千尋?」 「お、おはよう」 千尋のかたわらで、ハクがふっと楽しげに笑った。 「その枕は、随分と寝心地がいいようですね」 「え?」 薫は首をひねり、後ろを向いた。そして絶句した。 てっきり枕だとばかり思っていたものは、じつは乙姫のたわわに実った胸だったのだ。 「――おや、もうよいのか?」 天女のように装った乙姫が、赤い目元を細めて微笑する。 「そなたがほしくばこの胸、いくらでも使わせて進ぜようぞ」 薫は羞恥のあまり顔を赤らめた。乙姫が陽気に笑う。 「苦しゅうない、薫。――さ、わらわにもっと近う寄れ」 両腕を広げて艶めかしくいざなわれ、薫は慌てて寝台から降りた。 「千尋、これは夢だよね?」 千尋の手を強く握り締めて、薫が力一杯聞く。 「浦島太郎も乙姫も、全部お伽話に過ぎないんだから――」 「でも、これはお伽話ではない」 ハクが多少強引にふたりの間に割り入った。穏やかに笑ってはいるが、愛する千尋の手を馴々しく握る薫への怒りゆえか、こめかみに青筋が浮かんでいる。 「まだわかりませんか。自分が今、龍宮城にいることに」 薫は目を見開いた。 ――たくさんの水泡が、薫の目の前をよぎる。 初めて薫は、自分が水の中で息をしていることに気付いた。 色とりどりのタツノオトシゴが、あたりをゆらゆら漂っている。 それらを避けるようにして、青色の何かが、細長い身体をくねらせながら泳いでいく。 ……蛇。いや、違う。 千尋の胸に抱きとられたそれは、小さな青龍だった。 「おや、乙麿(おとまろ)ではないか」 乙姫がころころと笑った。 「さては千尋の匂いを嗅ぎつけて来おったな?」 「はい、乙姫の姉上」 青龍は童子に化けた。美豆良に水晶の髪飾りをつけ、青い装束を着込んだその童子は、やんごとなき龍王太子だ。 「太子様、乙姫様の弟だったんだ……」 薫よりもさらに驚いた様子でいるのは千尋だった。 「千尋、会いたかったぞ」 ハクは千尋にぴったりとしがみついている乙麿を冷ややかに見下ろした。 「太子様、どうかお忘れなきよう。千尋は私の妻ですので、おたわむれはほどほどに……」 「かような稚児に悋気を起こすとはなさけないのう、琥珀主よ」 乙姫が袖で口元を押さえながら笑った。 薫は不思議な思いがしながら、そんな彼らを観ている。 現実主義者であるはずの薫は、なぜかこの状況を受け入れようとしていた。 受け入れられるような気がした。 千尋がこれを現実だと言うのなら。 「ねえ、千尋」 千尋は、火花を散らして睨み合うハクと乙麿から、目を離した。 「俺、千尋のこと好きだよ」 「――!?」 「千尋が龍宮城に住んでようが、龍と結婚してようがどうでもいい。俺はあきらめないから」 ハクはメラメラと怒りの炎を燃やしながら薫に詰め寄った。 「千尋は私の妻だ!」 「『今は』な」 薫はにやりと笑う。 「そなたも罪作りなおなごよのう、千尋」 殊更楽しげに、乙姫がおろおろしている千尋の肩を叩いた。 腹が減ったのか、乙姫は透き通った赤色の海藻を噛みながら言う。 「琥珀主はな、薫を他のおなごに目移りさせてくれとわらわに泣き付いてきたんじゃ」 「……」 「人間に化けるのは楽しいからのう。わらわはその頼みを引き受けてやった」 千尋は盛大な溜息をついた。 「ハクったら、いつのまにそんなこと……」 「許しておやり」 乙姫は鷹揚に諭した。 「すべてはそなたを愛するがゆえの愚行。あれは余裕のない憐れな男なのだから、そなたへの愛に免じて許しておやり」 そう言われては腹を立てるわけにもいかない。千尋はもう一度嘆息し、頷いた。 「乙姫様にも迷惑かけてしまって……」 「おや、迷惑などとはとんでもない」 乙姫の目が、悪戯っぽくきらりと光った。 「わらわはあの人間が気に入ったぞ。百年も千年もここへ留め置きたいくらいじゃ」 「そ、それじゃあ本当に浦島太郎になっちゃいますね」 千尋はぎこちない笑みを浮かべた。 ハクと薫、そして乙麿の三人は、今だに火花を散らして睨み合っている。 琵琶や龍笛を手にした龍女たちが、こらえきれずにくすくすと忍び笑った。 end. ×
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