Always with Me




「切符は持った?」
「うん」
「本当に、一緒についていかなくて大丈夫?」
「大丈夫だってば。お母さん」
「本当か?千尋はしっかりしてるようだけど、時々ぬけてるからなあ……寝過ごして、駅降り間違えたりするなよ?」
「もう。二人とも、心配しすぎだよ!」
 車の後部座席のドアを少し大袈裟に閉めて、千尋は頬をふくらませた。
「だいたいね、わたしはもう18なの。子どもじゃないんだから、ひとりで電車に乗るくらい、なんでもないって」
「それはそうだけど……」
 千尋の母・悠子は、少々面食らいながら、助手席の全開のウインドウから顔をのぞかせている娘をあらためて見上げた。
 8年前にこの土地に引っ越してきてから、千尋は本当に変わった。前までは、引っ込み思案で、甘ったれていて、泣き虫で。嫌なことがあるとすぐにむつけるような子だったのに。
 ここに来てからは、見違えるように成長した。
 学校では、自ら進んで班長になったり、児童会長になったり、積極的にリーダーシップをとるようになった。他の子たちが嫌がるような面倒な仕事も、率先して引き受けるようになった。
 勉強に一生懸命になった。
 家で手伝いをするようになった。
 きちんと挨拶ができるようになった。
 他人に優しく、自分に厳しくあれる子になった。
 千尋の成長ぶりは、このように、枚挙のいとまがない。
 ――いったい何が、娘をそこまで劇的に変化させたのか。
 それは明夫にも悠子にもわからなかった。けれど、千尋が自分達の知らない間に、何か特別な経験をしたのだろうことは何となくうかがえた。
「あと十分で電車来ちゃうよ」
 千尋が腕時計を見下ろしながら、少し焦れたように言った。
「わたし、もう行かなきゃ」
「――待って!」
 悠子の口から、咄嗟に声が飛び出した。
 駅に駆け出そうとした千尋が、顔だけで振り返る。
「向こうの大学で、ちゃんと勉強頑張るのよ」
「うん」
「都会だからって、遊んでばかりいちゃダメよ」
「うん」
「それから、それから……」
 悠子は目尻に浮かんだ涙を隠すように、にっこりと笑ってみせた。
「どんなに忙しくても、年に一度はかならずうちに帰ってきなさい。……いいわね?」
「わかった。お母さん、お父さん」
 ……さよなら。ほんの少しの間だけ。
 千尋は屈託ない笑顔で、手を振った。

 駅構内のコンビニで急いでおにぎり二つとお茶を買い、千尋は発車寸前の電車に駆け込んだ。
「良かった、間に合って……」
 安堵しながら、空いている席に腰を下ろす。向かいの横長の赤シートには、間隔をあまり空けずに乗客が座っていた。千尋の座っているシートも、ほぼ満席だ。
 ちょうど混んでいる時間帯にあたってしまったらしい。さすがにこれだけの人目があるなかで、おにぎりにかぶりつくわけにもいかない。
 ……ごはん、食べてくれば良かった。
 空腹をまぎらわすように、千尋は後ろに少し首をひねって、車窓越しにゆっくりと過ぎていく景色を眺めた。
 彼女はさらに遠くを見るように目を細める。
 ――昔、こうして海の上を走る電車に揺られた時のことを思い出していた。
 水平線をぼかしてどこまでも続く空と海。嫌なことがあったとき、同じような間違いを繰り返してしまったとき――思い悩むたびに千尋は、あの空と海の果てしない青さを思い知る。そしてその大いなる自然を前にして、自分がいかに小さな存在であるかを。
 千尋は青空を見上げた。飛行機雲がひとつ、まるで白い龍のように天へ昇っていく。
 胸をそっと押さえる。
『――千尋』
 呼んでいる、胸のどこか奥で。
 あの日と変わらない声で、あの人が、わたしを。


 がたんごとん、電車が揺れる音がする。手すりの輪っかの影が、床の上で揺れている。
 誰かが千尋の肩に手を添えていた。そちらに抱き寄せるわけでもなく、ただそっと触れているだけ。
「千尋」
 呼ばれて千尋はゆっくりと顔を上げた。
 不思議なことに、向かいのシートから人が忽然と消えていた。他のシートにも、ほとんど満席状態だったはずなのに、誰も座っていない。
 後頭部に触れている窓から、夕陽が暖かく差し込んでいる。
 誰かが微笑む気配がした。
 ――彼女のすぐ隣に、彼は座っていた。
「久しぶりだね、千尋」
 あの日と変わらない童子姿で、彼は微笑んでいる。
 千尋は口もきけずにいた。言いたいことがたくさんあるはずなのに、この機を逃したらもう二度と会えないかもしれないのに――現実に頭が追い付かない。
 ハクは微笑みを崩さぬまま、静かに問い掛けた。
「――この地を離れるんだね?」
「――!」
 千尋の目に衝撃がよぎる。
「ごめん、なさい」
「なぜ謝るの?」
 ハクはほんの少し首を傾げた。
「千尋は何も悪いことはしてない」
「……でも、わたし、あの場所でハクを待てなかった」
 千尋の声が震える。
 ハクは優しい表情のまま、横に静かに首を振った。
「私を待たずともいい。千尋は自分の信じる道を進めばいいんだ。――わかるね?」
「ハク」
 千尋ははらはらと涙を落とした。
「あのね、わたしね」
「うん」
「――こわいよ」
「……うん」
「本当はね――新しいところに行くのが、こわくてたまらないの」
 千尋はきつく目を閉じた。
「みんなが思ってるほど、強くなんかないの。賢くなんかないの。本当のわたしは、甘ったれてて、泣き虫なまま――」
「……千尋」
「向こうに行ったら、ひとりぼっちになっちゃう」
「千尋」
「こわいよ……」
 ハクは千尋の手を握り締めた。いつの日だったか、そうしてこわがる千尋を勇気づけてくれた時のように。
「よく、言えたね」
 優しい声でハクはねぎらった。
「こわいときに、正直に『こわい』と言えるのも、強さのひとつなんだよ」
「ハク――」
「大丈夫。千尋は強い。強くて、賢くて、優しい子だ」
 それに、とハクは続けた。
「千尋はひとりじゃない。――私がそばにいる」
「本当に?」
「うん。目には見えないかもしれないけど――」
 千尋は目を見開いた。夕陽にまぎれてハクの姿が、幻のように薄れていく。
「ずっと、いつまでも、わたしのそばにいてくれる?」
 必死の思いで問う千尋に、ハクは静かに頷いた。
「うん」
「きっとよ?」
「きっと――」
 ――さあ、目を開けな。そしてこの夢はもう振り返らないで。
 ここから先は、そなたが自分で歩く道だ。


 電車がゆるやかにトンネルに差し掛かる。乗客はいつのまにかまばらにしかいない。
 千尋はぼんやりと膝元に視線を落とした。
 コンビニで買ったはずのおにぎりが、笹の葉でくるまれている。
 そっとひらいてみると、大きな塩むすびがふたつ現れた。まるでたった今握られたかのように、つやがあって温かい。
 千尋はそれを手にとって、かじった。
 あの時と同じ、しょっぱくて、優しい味がした。

 トンネルを抜けると、深い群青色に染め上げられた海が見えた。暗くなってからも、空と海の境界線は曖昧で、どこまでが海なのか定かではない。
 ……でも、それでもいい。
 千尋は窓に反射した自分の顔に、にっこりと笑いかけた。

 海の彼方には、もう探さない。
 希望も、意志も、大切な人さえも。
 輝くものはいつもここにある。
 わたしの中に見つけられたから。





end.

(Based on "いつも何度でも")

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