Office Love 『失礼しまーす』 心の中でつぶやきながら、千尋は帳場の入口にかかる暖簾から、ひょっこり顔を覗かせた。 油屋でたったひとりの帳場係は、彼女の予想通り、飯時になってもやはり机に向かっていた。分厚い帳簿をめくりながら、もう片方の手で黙々と算盤を弾いている。その速さと正確さたるや凄まじく、算術においてこの油屋で彼の右に出るものは、まずいないという。 「千、私に何用だ?」 帳簿から目を離さずに、ハクが抑揚なく言った。千尋ははっと我に帰り、持ってきた盆を机上に置く。 「ハク様に夕飯をお持ちしました」 「そうか。ご苦労」 ぱちぱちぱち、算盤の珠を弾く音が、耳に心地いい。千尋は盆を抱きしめながら、思わず目を閉じていた。そこではじめてハクの視線が彼女の方に流れた。彼の口許に優しい微笑が浮かぶ。 「……そなたは、もう夕餉を済ませたかい?」 「は、はい。リンさんたちと一緒に」 「そう。それはよかった」 「ハク様もお召し上がりにならないと、朝まで身体がもちません」 「そうだね。ありがとう」 ハクは、千尋にだけ向ける穏やかな声色で語りかけた。千尋ははにかみながら笑う。 「ハク様、あの、もしよかったら……」 「うん?」 千尋は目を爛々と輝かせて、身を乗り出した。 「わたしが、あーん、して差し上げます!」 危うくハクは椅子から滑り落ちるところだった。こぼれた墨を慌てて拭きとる。 「千、そなた一体、なにを……」 「だってハク様、忙しいんですよね?」 千尋は既にその気満々らしい。丼と箸を手に満面の笑みでハクの隣に控えている。 「はい、あーん!」 ハクは辺りに素早く目を走らせた。狭い帳場にはもとより誰もいない。廊下にもどうやら人気はないようだ。据え膳食わぬは男の恥ぞと、己に言い聞かせながら、ハクはぱくりと箸先をくわえた。 「おいしい?」 「……うん」 好きな女にこうもかいがいしくされて嫌がる男はいない。常日頃、鉄仮面だの朴念仁だの仕事の鬼だのと称されているハクもどうやら例外でないらしい。みとれてしまうような甘い微笑を見せた。 「千、私を見て」 千尋が顔をあげたその一瞬に、ハクは彼女を抱きすくめて、唇に触れるか触れないかの位置に口づけた。 「……続きは仕事が終わってから、しようか」 赤く染まった耳たぶに、ハクはどこか楽しそうに囁いた。 その後、帳簿に記載する新たな伝票を持って来た青蛙は、何食わぬ顔で算盤を弾く帳場係と、ほうけた顔で窓の外を見つめる小湯女の姿を目撃したという。 end. ×
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