管狐 6 りんねは見知らぬ森の中を、ひたすら駆け回っていた。大声でひっきりなしに桜の名を呼び、答える声がないかと神経を研ぎ澄ませている。あまり呼び続けたせいで、そろそろ喉が涸れてきそうだが、いまだに彼女の気配すら感じられない。ひとりきりで危ない目にあっているのではないか、と思うと、背筋にうすら寒いものを覚えた。 ここがくだんの「神隠しの森」であろうことは容易に予測がつく。彼女の言っていた狐男が、きっとどこかにいるはずだ。すでに桜がその手の内に囚われているかもしれない。あの男は桜になみなみならぬ執着を抱いている。何をしでかすか分かったものではない。焦燥するあまり、りんねは手に汗を握っていた。 「姿を見せろ、狐男!」 桜にではなく、今度は狐男に向けて、無我夢中で声を張り上げた。 「かくれんぼはおしまいだ!真宮桜に手を出せば、ただでは済まさん――!」 こん、こん、と。 背後で狐が啼いた。 りんねは素早く振り返った。藪の中から、一匹の白い狐が飛び出してきた。つづいて長身の男がのっそりと、片手に赤提灯、もう片方に、りんねの顔から離れなかったあの狐のお面を提げて現れた。 そこで初めてりんねは、お面がいつの間にか顔から取れていたらしいことに気付いた。 「ああ、そうだ。きみが、六道りんねですね」 しばらくりんねを観察したのち、狐顔の男はくすくすと笑った。 「人間と死神の混血児。桜と同じく、幽霊が見える少年……」 「真宮桜はどこにいる?」 りんねが鋭く切り込んだ。 「彼女は無事なのか?」 「……」 「答えろ!」 死神の鎌の刃先が狐男の首筋をとらえた。滅多に心を荒らげることのないりんねが、いまは烈火のごとく怒っていた。だが男は恐れた様子など微塵も見せない。むしろ愉快そうに、赤くふち取られた目を細めている。 「随分と焦っているな。そんなにあの娘のことが大事なのか?」 歯ぎしりするりんねを、狐男は冷笑した。 「私は知っていますよ。きみはあの真宮桜を何よりも大事に思っている。あの娘が傷付けられたり、苦境に陥れられるのは耐えられない――」 「……お前には関係のないことだ」 白い狐が、ぎろりとりんねを睨んだ。 「なんとも片腹痛い。お前のような若僧が、この私の獲物に手を触れようとは――」 突然、狐男は手にしていた赤提灯をりんねに投げ付けた。りんねは咄嗟に鎌を引き、後ろに飛びすさった。地面にぽとりと落ちた提灯から、またたく間にごうっと火が燃え上がる。その中から、狐のお面をつけた男がゆっくりと歩み寄ってきた。 「お前の命など、奪ったところで何の足しにもならない」 狐男は狂ったように高笑いした。 「私が奪いたいものは、お前の薄汚い命などではない。もっと価値のあるものだ――」 りんねは立ちこめる煙を吸い込まないように、黄泉の羽織の袖で口元を押さえた。炎を映す彼の赤い瞳は、ますます熱を帯びている。怒りのあまり、鎌をもつ手がぶるぶると震えた。 「お前が何を奪いたいのか、何が欲しいのか、俺は知っている。――だが、絶対に渡さない」 「なんて図々しい小僧だ。桜はお前のものだとでも、言いたいのか?」 ごうごうと燃え盛る炎の中、彼をあざ笑う狐男に、りんねの怒りはとうとう沸点に達した。 「お前なんかが!気安く、彼女の名を呼ぶな──!」 狐男の高笑いが止んだ。 ──突然、空からしとしとと雨が降ってきた。もののけのように燃え上がっていた炎はまたたく間に消えうせ、あとは残った煙だけが、まぼろしのように辺りをゆらゆらと漂うばかりだった。 「天気雨は、狐の嫁入り――」 矢庭に、空を見上げる狐男がささやく。 「人間の世界では、そんな言い伝えがあるそうですね」 「それがどうした」 りんねは眉をひそめた。くつくつ、と狐男が不敵な笑みをこぼした。 「ひとつ、きみと私で賭けをしませんか」 「賭け?」 「そう、賭けです。彼女を賭けて勝負しましょう」 怪訝な顔をするりんねを、お面の奥で狐男はまた笑った。 「私が名前を呼んでも、あの娘が振り返らなければ、きみの勝ち。けれどもし万が一、振り返ってしまえば、私の勝ち――」 りんねは雨で濡れた前髪を無造作にかき上げた。賭事などという危険な綱渡りは避けたいが、ここで断れば、この狐男はずっと桜に付きまとい続けるかもしれない。それはどうにかしなければならない。りんねは目を閉じ、そうしてしばらくどうすべきか迷っていた。額から伝い落ちたしずくが彼の長い睫毛を濡らした。にわか雨は、まだやむ気配を感じさせない。 「俺が勝てば、二度と真宮桜に危害を加えないと、約束できるか」 最終的に、りんねは立ち向かうことを決めた。狐男が満足げに頷く。 「この森での約束は絶対だ。私が負けたなら、かならずその通りにすると約束しましょう」 その代わり、と彼は続けた。 「私が勝ったら、彼女をもらいますよ」 りんねは目を見開いた。狐男が、言葉を噛み締めるように言う。 「きみが賭けに負けたら、桜は、私のものだ」 こん、こん、と白い狐が啼き声を上げた。すると雨のなかを漂っていたもやが、まぼろしの花嫁行列となって、りんねのそばを通り過ぎていった。 ――天気雨は、狐の嫁入り。 「約束、できますか?」 自分が先に「約束」を持ちかけてしまった。いまさら、後戻りはできない。 りんねは唇を噛んで、頷いた。 「ああ。約束する」 桜は腕を縛る縄をほどこうと奮闘していた。 数メートル離れた木に、気を失った翼とれんげが縛りつけられている。 三人の周りを見張るかのように、狐のお面をつけた童子達が囲っている。 降りやまない天気雨のおかげで、桜は髪も制服もしっとりと水気をふくんだ濡れねずみ状態だ。 「翼くん、れんげ――」 呼んでみても、二人は首を垂れたまま動かない。 彼らの身体も雨に打たれて冷たそうだった。 一刻も早くなんとかしてあげないと。 桜が唇を強く噛んだその時、童子達がいっせいに、同じ方向を見た。 がさがさ、と藪をかき分けて誰かが近付いてくる音がした。 「真宮桜!無事か!?」 六道くんの声だ――。 桜が安堵したのもつかの間、今度はまったく逆の方向から、同じ呼び声がした。 続 |