弓張月 いずこからか、妖魔の気配がする――と眠れぬ床の中で巫女は思った。 隣で安らかな寝息を立てる妹を起こさぬように、彼女はそろそろと褥から抜け出した。囲炉裏の火がまだ僅かに燻っている。その微かな明かりをたよりに、立て掛けてある弓と矢筒を取った。鞋を履いて、抜き足差し足、外へ出る。 頬をなぶる夜風が冷たかった。 彼女は高く通った鼻の先をひくつかせた。 微かにではあるが、饐えた悪臭が風に乗って運ばれて来る。 「――よお、桔梗」 不意に声が降ってきた。目線を上げると、茅で葺いた屋根の上に、犬耳に銀髪に朱色の装束といった出で立ちの妖異が座っていた。 「犬夜叉……」 名を呟いただけで矢を向けなかったのは、それが顔馴染みの半妖であるからだ。 「こんな夜更けに月見か?……ってわけでもなさそうだな」 桔梗が手に持つ大弓を見遣りながら、犬夜叉は言った。 「おまえこそ、犬夜叉、何の用があって私の家の屋根にいる」 桔梗はぬばたまの髪を靡かせて嫋やかに微笑した。「……さては私の顔が見たくなったか?」 「だ、誰がおめーのいけ好かねえすまし顔なんざ!」 顔を赤くして犬夜叉がまくし立てると、桔梗は人差し指を口元にあてて咎めるような眼差しを送った。 「大声を出すな。楓が起きる」 「お、おう」 犬夜叉は慌てて閉口する。 森から虫時雨が聞こえていた。たなびく銀雲の影に見え隠れする月は、夜空に清浄な光を放っている。 しばし見つめ合ったのち、桔梗が踵を返して歩き出した。 犬夜叉は夢から醒めたように慌てて屋根から降り立ち、彼女の後に続いた。 「――森に何かいる」 桔梗が唐突に告げた。「嫌な腐臭がする。おまえも鼻が利くから分かるだろう、犬夜叉」 「ああ」 今しがた気付いた、という表情で犬夜叉が言った。「そういえば、きな臭え匂いがしやがるぜ」 「妖怪か?」 「だろうな」 「では行って退治せねばなるまい。おまえも付き合うか?犬夜叉」 けっ、と袖に腕を差し入れて犬夜叉はそっぽを向いた。 「おまえがそうして欲しいって言うなら、付き合ってやらねえこともねえ」 桔梗はくす、と微笑した。 「では頼む、犬夜叉。私とともに、妖怪退治に来ておくれ」 「……お、おう」 犬耳をぴくつかせながら、犬夜叉はぎこちなく頷いた。 夜陰に包まれた森に踏み入ると、えもいわれぬ腐臭が二人の鼻をついた。 「死にぞこないの妖怪が腐ってやがるんじゃねえか」 「ああ、そうかもしれない」 桔梗は涼しい顔で返す。 犬夜叉はその横顔を眺めながら、感心とも呆れともつかぬ調子で言った。 「おまえは女のくせに、肝っ玉が据わってやがる」 「それは褒め言葉ととってよいのか?」 「さあな……」 鼻を袖で押さえながら目を逸らす犬夜叉。桔梗はそんな彼を横目に、矢筒から矢を一本抜いた。 「そろそろ来るか」 「ああ、来る」 犬夜叉は夜陰に目を凝らした。長い爪をバキバキと鳴らす。 「手出しは無用だ、犬夜叉」 弓に矢を番えながら、桔梗が言った。「下手にその爪を振り回せば、穢れを受けるぞ」 桔梗は弓を引き絞った。そして闇の一点に狙いを定め、矢を放った。 ギャッ、と悲鳴が上がった。 「終わったのか?呆気ねえ」 犬夜叉がつまらなそうに言うが、 「……いや、まだ終わっていない」 桔梗はそのままの姿勢で闇を見据えた。 何者かの姿が浮かび上がった。烏帽子を被り、萌黄の装束を身につけた人間の男のように見えるが、人外である。それも身体の半分が腐りかけた妖異だった。 「あな恨めしや、巫女め」 破魔の矢を額に受けたまま、妖怪は桔梗にかっと牙を向いた。饐えた臭いがより一層辺りに蔓延し、堪らずに犬夜叉は眉をひそめた。 「冥界へゆけ、妖怪。その身体はもう朽ちている」 厳しい声で桔梗が告げると、妖怪は裂けた口から瘴気を吐き出した。犬夜叉が咄嗟に桔梗の前に踊り出て、火鼠の衣の袖で一蹴した。 桔梗は犬夜叉の肩を叩いた。 「助かった。礼を言うぞ、犬夜叉」 「けっ、別におめーを助けたわけじゃねえ」 そう言う犬夜叉の頬はうっすら染まっていた。 妖怪は末期の息をつきながらもなお、二人に襲い掛かろうとしている。 桔梗は再び矢を抜き取り、弓を引き絞った。今度は妖怪の腐りかけた心臓を射止めた。途端に声にならない叫び声を上げて、妖怪はばたりと仰向けに倒れ、今度こそ動かなくなった。 桔梗はその屍に近付くと、心臓を貫く矢に触れた。目も眩むような浄化の光がひろがって、犬夜叉は顔を背ける。 気付けば屍はどこぞへと消えており、辺りに満ちていた腐臭もなくなっていた。 「死を恐るるは万物の性、か」 弔いを終えた桔梗は不意に立ち上がった。そして何を思ったか、弓に矢を番え、犬夜叉に狙いを定めた。 「――おまえも死を恐れるか?犬夜叉」 きりきり、と弓を引き絞りながら桔梗は問う。「今ここで、この私の矢に射貫かれて死ぬとしたら、おまえは恐ろしいと思うか?」 「いや――」 犬夜叉は逃げも隠れもせず、至って真顔で言った。「恐ろしくはねえな」 「何故だ」 「だって桔梗、おまえはおれを殺せねえ」 犬夜叉は破顔した。「おまえは、そういう女じゃねえ。それはおれが一番よく知ってる」 「随分、買い被られたものだな――」 桔梗は弓矢を下ろして、花のように笑った。その笑顔に、犬夜叉はひそかに心を疼かせる。 「では行こうか、犬夜叉」 「行くって、どこへだよ」 「どこへでもいい。折角の月夜だ、一緒に散歩でもしよう」 さあ、と桔梗が犬夜叉の手を引いた。犬夜叉は足を縺れさせながらも歩き出した。桔梗の背負う矢筒の中で、矢が軽やかな音を立てる。それはそのまま桔梗の足どりのようだった。 「どこまで行こうか、犬夜叉」 「どこまででもいいんだろ?なら、遠くまで行ってみようぜ。帰りはおれがおぶってやるからよ」 森を出た所から見上げた月は、まるで桔梗の引く弓の弦のように張った、下弦の月だった。 end. ×
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