霓裳羽衣 | ナノ

霓裳羽衣




 風のないよく晴れた日に、深く青いその川の淵を注意深く覗くと、ほんの一瞬だけ、水に揺らめく龍宮城が見えるそうな――。


 「千花玉宮」と名付けられたその龍宮城には、年若い龍神とその妻が棲んでいた。龍神はごく最近この山麓に創られた小さな川の主で、名をニギハヤミコハクヌシという。以前は別の川を支配していたそうだが、その川が人間の手によって埋め立てられてしまったので、大海におわす大海龍王によって新たな川を与えられたのだった。
 彼の妻・千尋は人間である。人間でありながら、縁あって龍神と契りを結んだ。
 この山の峠を越えたところにある森の奥に、八百万の神々が穢れを落としに訪れる「油屋」なる湯治場へ通じる入口がある。かつて逢い別れた二人はそこで三度目の再会を果たし、将来を誓い合った。
 千尋が十六の夏のことだ。
 以来龍神ハクは、大海龍王の治める水府へ何度も足を運び、衛兵の夜叉達に押し止められてもめげずに、新たな川を賜りたい旨を申し開いた。前例のないことではあったが、年若い龍神の意気に負け、大海龍王も遂には書状に玉印を捺されることとなった。
 こうしてハクがあらためて求婚に訪れた十九の夏、彼の求婚を受け入れた千尋はそのまま「千花玉宮」に招かれ、神籍に入った。
 神籍に入ったとはいっても、彼女が人間であることには変わりないので、川の外と中とを自由に行き来できる。つまり、龍宮城では龍神の妃として龍兵や龍女達に傅かれる千尋も、ひとたび水から上がればごく普通の大学生なのだ。

「お帰りなさいませ、奥方様」
 大学から帰ってきた千尋は、蜻蛉の羽のように薄い肩掛けをした龍女の一人にそう言われ、頬を赤らめた。
「奥方様なんて呼び方、恥ずかしいからやめてくださいって言ってるのに……」
 着替えの上衣と裳を衣裳掛けから外しながら、妙齢の美しい龍女はふふ、と微笑んだ。
「申し訳ありません、千尋様。わたくし、どうも物覚えが悪うございまして……」
 実は年若い妃のうぶな反応を楽しんでいる、などとは賢い龍女は口にはしない。
「さあ、お召し替えを。じきに旦那様がお戻りになられます」
「はあい、水蓮さん」
 それが千尋付きのこの龍女の名だった。
 水蓮の手を借りて、白銀の上衣に淡い七色の裳を穿き、桃色の薄い領巾を肩に掛ける。髪は顔回りに少し垂らして残りを結い上げ、大きな龍を象った珊瑚と金の簪を挿した。真珠の耳飾りをつけ、極めつけには琥珀や翡翠や瑠璃でできた細い腕輪を幾つも嵌める。
 ハクはその天女のように愛らしい姿を眺めながら、楽士達に「霓裳羽衣」の曲を奏させることを、もっぱら日々の日課としていた。

 厨房で千尋が夕餉の支度の手伝いをしているさなか、主人の帰還を知らせる銅鑼の音が、龍宮城の入口たる「通龍門」から宮城全体に轟き渡った。
 美しい白龍は赤と金に彩られた通龍門を抜け、衛兵や龍女達が拝礼して出迎える姿を横目に、両腕を広げて彼を待つ愛しい新妻を目指す。白龍はその腕に飛び込んでいき、ひとしきりほお擦りしたのち、彼女のその唇に口づけた。瞬間、大小様々の水泡が生まれ、白龍は見る間もなく深緑の目をした美しい若者に変じていた。
「ただいま、千尋」
 彼女を強く抱きしめながら、この「千花玉宮」の主たる龍神は言った。
「おかえり、ハク」
 その胸元に頬を寄せて、千尋は嬉しそうに返した。
 二人が今一度軽い口づけを交わすのを傍らで微笑ましく眺めながら、水蓮はゆったりとした両袖に手を差し入れて、拝礼をとる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
 それが鶴の一声となり、衛兵や龍女達もまた声を揃えた。
「出迎えに感謝する。皆々、御苦労であった」
「恐れ入りまする、旦那様」
 主からの労いの言葉に、彼らは一斉に恭しい拝礼をとった。

 夕餉を終えると、ハクは楽士達を呼び、今宵も「霓裳羽衣」の曲を奏させた。
 綿々として軽やかな調べにうっとりと聴き入る千尋の横顔に、ハクは身を乗り出して唇を押し当てる。
「千尋、そなたは天女のように愛らしいね」
 肩を抱きながら言われ、千尋はぽっと頬を染めた。「だから、人前でそんなこと言われたら恥ずかしいよ、ハク……」
「本当のことなのだから、恥じることはない」
 ハクは微笑した。その声は水の中を漣のように渡っていった。
「――私は本当に幸せだ」
 玉杯の中で揺れる瑠璃色の飲み物を座敷に差し込むほのかな月光に透かしながら、彼は満ち足りた表情で瞑目した。
「新たな川の主に任ぜられて、油屋で働いて貯えた財で、こうして千尋と暮らす城を買って。毎夜、天女のようなそなたとともに楽の調べを聴き、同じ閨に入る……。これほどの幸せが、他にあるだろうか」
 ハクは玻璃の杯を置いて、千尋を抱き寄せた。一枚一枚、彼女が着ているものを丁寧に脱がせていく。肩に掛けた領巾が、まるで人魚の尾鰭のように水中を漂った。

 いつの間にか、楽士達の姿は消えていた。されど「霓裳羽衣」の調べは、漣のようにいつまでも水中を渡っていた――。





end.
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