管狐 5 ひゅう、と頬に吹く風が冷たかった。身震いするほどの寒さで桜は目を覚ます。二の腕をさすりながら身を起こすと、目の前に見知った光景が広がっていた。 そこは、あの手に引きずり込まれたはずの空き教室ではなく、薄暗く深閑とした森の中だった。 頭上をおおう深緑の天蓋、足元には途中で不自然に途切れた轍、そしてその先には、人ならぬものが潜んでいるであろう暗闇──。 そこはまさに、あの裏山の麓にある、神隠しの森だった。 「どうしてここに……」 「どうしてだと思います?」 桜は息をのむ。 「誰?」 くす、と声は笑った。どこかでまた、狐が啼いた。 「聞かなくたって、きみには分かっているはずだ。どうしてここに呼び戻されたのか」 森の中に声がこだましている。けれどそれが、どこから聞こえてくるのか分からない。 「姿を見せてくれませんか?」 桜は四方を見渡した。 「お願いします。直接、あなたと話がしたいんです」 「今更、一体何の話をするというのです?」 声が突き放すように言った。 「私は十年も待ち続けた。また戻ってくる、と言ったきみを信じていた。だから森の外へ帰してあげたのだ。なのにきみは、この十年間、この森に近寄ろうとすらしなかった。私のことなんてすっかり忘れていたのだろう。桜、きみはあの日の約束を反故にした」 声はしずかな怒りをこめて囁いた。「――私はきみのことが、大嫌いだ」 幼い頃の口約束とはいえ、約束は約束。それを守れなかったなら、するべきことはただひとつ。 「ごめんなさい」 暗闇に向けて、桜は深く頭を下げた。精一杯の誠意をこめて。 「約束を守れなくて、本当にごめんなさい」 「謝罪の言葉は要りません」 声はにべもなく突っぱねた。 「言葉なんてうわべだけ。空虚なものです。そのようなものは欲しくはない。本当に申し訳なく思っているのなら、形あるもので誠意を示してください」 「じゃあ、何を渡せばいいですか?あなたは、一体私の何が欲しいの?」 くすくす、と声が笑った。 「もちろん、十年前に約束した物ですよ。それが何なのかは、きみ自身が一番よく分かっているはず。なんせ、みずからここへ連れてきたくらいですから」 みずからここへ連れてきた──。イヅナが何を言っているのか理解した桜は、あわてて首を横に振った。 「それは、だめです」 「おや、渡せないと言うのですか?」 「はい」 桜はまっすぐに暗闇を見すえた。「絶対に、渡せません」 「なるほど。興味深い」 言葉に反して、声は怒り混じりだった。 「……とても興味深い」 空気の重圧感が増して、息苦しくなる。桜は胸を抑えながらじりじりと後ずさった。暗闇からいくつもの狐のお面がぼうっと浮かび上がった。こん、こん、こん。あらゆる方角から、狐の啼き声が聞こえる。責め立てるようにも、あざ笑うようにも聞こえるその声。 「十年の間、きみを見ていました。きみがこの森に戻ってくるのを、今か今かと待ち侘びながら」 あいまいだった声の出所は、今や桜から向かって正面の一点に定まっていた。きっとそこに、イヅナは潜んでいるのだろう。 「月日が経っても何事もなかったかのようにのうのうと過ごしている。そんなきみが、私は嫌いだ。きみから何を奪ってやろうかと、そればかりずっと考えていた……」 桜の足が、まるでそこに根を下ろしたように、ぴたりと動かなくなった。 暗闇の中から、狐のお面をつけた無数の少女が現れた。みな一様に髪を両側でおさげに結い、神隠しにあったあの日、桜が着ていた服を身にまとっている。紅葉のように小さな手は、狐の形をつくっていた。 「十年目になって、ようやくきみから奪うべき物を見つけた。私はそれに、呪いをかけた。桜、きみに、十年前の約束を思い出させるために」 少女達が、いっせいに化けた。今度は狐のお面をつけた無数の六道りんねが、桜のまわりを取り囲んだ。彼らは死神の鎌を手に、ひとりずつ、ゆっくりと彼女に歩み寄ってくる。 「忘れてしまえば全てなかったことになる、とでも思いましたか?」 その指摘は耳に痛いものだった。それにまやかしとはいえ、自分に刃を向けるりんねを見ているのは、心が痛んだ。 「――真宮さん!」 金縛りで動けずにいる桜は、遠くから聞こえてきたその呼び声にはっとなる。 彼女の背後から、聖灰玉が勢いよく飛んできた。空中で弾けると同時に、中から聖灰がぶわりとあふれ出す。もうもうとけぶる聖灰の中で、狐のお面をつけたりんね達はひとりずつ、まぼろしのようにかき消えていった。 「おのれ。邪魔立てしようというのか、祓い屋の小僧」 ひゅん、と桜の頬を何かが掠め飛んでいった。それは正面の暗闇から放たれた矢だった。 「うわっ」 声からして、翼は咄嗟にそれを避けたらしかった。 「危ないだろうが、この狐男!」 「祓い屋。呪いのとばっちりを受けたくなければ、今すぐここから立ち去りなさい」 「やかましい!真宮さんを返せっ」 頭に来たらしい翼がわめき立てた。 「おい、お前も何とか言え、れんげ!」 「だから、なんで私が!」 「真宮さんを助けるんだ!協力しろ!架印に正体をバラされたいのか?」 「あんたも六道も、人の弱みにつけ込む最低野郎ねっ」 同級生二人がなにやらもめている間、桜はなんとか金縛りをとこうと奮闘するが、やはりその場からは一歩も動けない。喉もまるで凍りついたようになっている。自由に声を出せるなら、二人にりんねの安否を問いたかった。この森のどこかに、りんねもいるはずなのだ。 「低級祓い屋に、落ちぶれ死神。そろいもそろって、うるさい連中だ」 イヅナが冷ややかに言い捨てた。暗闇から一匹の白狐が飛び出して、桜のすぐそばを横切っていく。白狐が着地したところに点々と、謎の字で囲まれた狐の赤い印が、浮かんでは消えた。魔方陣のようなものだろうか。桜は寒気がした。 逃げて、と叫ぶ桜の努力もむなしく、遠くで翼とれんげの悲鳴が上がった。 続 |