悪神 ハクが油屋の異変に気付いたのは、隣街への出張から帰ってきてすぐの事だった。 「よくぞお戻り下さった、ハク様!一大事ですぞ――」 行灯を提げた蛙男が太鼓橋に降り立ったハクに血相変えて取り縋ってくる。ハクは眉根を寄せて高楼を見上げた。 「何やら悪しきものの気配がする。私の留守中に、良からぬ客を招き入れたな」 口を開く前に咎めるようにハクに言われて、出迎え役の蛙男は口ごもった。 「ゆ、湯婆婆様がおらぬゆえ、我々もよもや悪神であろうとは気が付かず……」 ハクは嘆息した。 「招き入れてしまったものは仕方がない。私が追い祓おう」 「しかし、悪神めは今、白拍子に取り憑いておりまして、迂闊に手出しは出来ぬのです……」 「多少の無理はやむを得まい。いつまでも悪神をのさばらせておく訳にはいかぬのだから」 暖簾をくぐると、まがまがしい気配は更に濃厚なものとなった。 「して、悪神はどこにいる?」 「奴は白拍子に乗り移り、四天の『白檀の間』に立て篭もっております……」 「四天か」 心得たとばかりにハクは頷き、湯煙の立ち込める湯殿まで来ると、上階をきっと睨み付けた。 「ハク!」 桶を運んでいた千尋が、気付いて彼に駆け寄った。 「いつの間に帰ってたの?」 「今帰ってきたところだよ。それより、客に悪神が紛れ込んでいたそうだが、千尋は大丈夫だった?」 「わたしは大丈夫だけど…白拍子のランさんがおかしくなっちゃったって」 千尋は不安そうに四天を仰いだ。胡蝶蘭の花に似たその清廉な白拍子は、千尋をよく可愛がってくれていたのだ。 「踊ってる途中に、いきなり、刀でお客様を傷付けようとしたみたいなの。……ねえハク、ランさん大丈夫かな。後でお仕置きされたりしない?」 ハクは苦笑し、千尋を安心させるように、肩をそっと抱いた。 「大丈夫。ランとて悪神に取り憑かれた被害者なのだから、折檻などしないよ」 その時、四天からけたたましい叫び声があがった。同時に全ての明かりが掻き消えて、辺りは一面闇に包まれ、湯殿は一時騒然となった。 夜目のきくハクは行灯を探し当てて、明かりをともすと、それを千尋に手渡した。 「私は悪神を祓いに行く。千尋、そなたはここで……」 「いや、わたしも連れてって!」 「でも千尋を危ない目に遭わせる訳には……」 「わたしは大丈夫だからっ」 埒があかないので、仕方なくハクは千尋をともなって四天へ駆け上がった。 「白檀の間」の襖には、護符がべたべたと貼られていた。中からは悪しきものの絶叫が聞こえてくる。 その襖をハクは一気に開け放った。中では、直垂と水干を纏い頭に立烏帽子を戴いた白拍子が、刀を振り回しながら狂ったように舞っていた。本来の美貌が嘘のように、その顔には悪相が滲み出ている。 「悪神め、覚悟せよ!」 ハクは印を結んで白拍子の動きを封じた。すると、黒い塊が飛び出して、今度はハクの隣にひかえていた千尋に乗り移った。 黒い靄に包まれてくずおれた千尋を見て、ハクは血の気が失せた。 「千尋……」 千尋は亡霊のようにゆっくりと起き上がり、ハクに抱き着いた。凍り付いたハクの首に、しゅるしゅると襷が巻き付く。それを千尋は、能面のような無表情のまま、力ずくで締め上げる。 「千、ハク、大丈夫かーっ!」 行灯を手にしたリンが階から駆け寄ってくると、千尋の手の力が一瞬緩んだ。ハクはその隙を逃さずに、身を乗り出して、千尋に深く口づける。 「千尋、目を覚ましておくれ」 耳元でそううったえると、千尋の瞼が静かに下りた。倒れかかってきた身体を抱き留めて、ハクは振り返る。悪神は、リンに憑依しようとしていた。 ハクは自分の首に巻き付いていた襷に神気を篭め、飛ばした。それは悪神を縛めた。が、悪神はなおも逃げ回ろうと、降ろしてある簾を突き抜けていく。 「大戸を開けろ!」 階下に向けて声高に命じると、ハクは白銀に輝く龍となった。開け放たれた大戸から出ていった悪神を追い掛けていき、夜空で捕まえて、その歯牙にかけた。 千尋が目を覚ましたのはハクの部屋だった。ハクの心配そうな顔が、彼女を覗き込んでいた。 「気が付いて良かった。どこか痛いところはない?」 千尋は布団から飛び起きて、驚くハクに抱き着いた。 「ハク、ごめんなさい!」 「千尋、落ち着いて……」 「わたし、ハクを危ない目に遭わせちゃった……!もし、ハクが死んじゃってたら、わたし、わたし……」 泣きじゃくる千尋の背を、ハクは優しく撫でてやった。 「私は龍だ。滅多なことでは死なないよ」 「でも、だって……」 「大丈夫。そなたは何もしていない」 ハクは千尋と額を突き合わせた。そして不要な記憶を探り当て、消した。 「今夜あった事は忘れておくれ。そして、おやすみ」 千尋はハクの腕の中で眠りについた。その瞼に、万感の思いを篭めて、ハクはそっと唇を落とした。 end. ×
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