三つ巴 | ナノ

三つ巴
続・「求愛」




 始業時間迄はまだいとまのある昼下がり、女部屋で午睡にまどろむリンの耳に、突如として安眠を妨げる騒音が聞こえてきた。
「ちょっとハク様、あんまり押さないでくださいよ」
「何を言う、カオナシ、そなたが私を追い越そうとするから悪いのだ」
「こらーっ、坊を置いていくな!」
 同室の湯女達は既に眠い目を擦りながら頭をもたげているところで、リンの隣に寝ていた千尋もまた例外ではなかった。
「リンさあん……何の騒ぎ?」
「あいつらが来たんだよ。ったく、毎日毎日安眠妨害しやがって」
 リンは寝起きの腹掛け姿のまま、障子を勢いよく開けた。割烹着を着たハク・カオナシ・坊のお騒がせ三人組が、瞬時にして言い争うのをやめる。かと思うと、今度は口々に千尋の名を呼び始めた。
「やかましい、この害虫共!」
「害虫とはなんだ、害虫とは」
「ひどいですよ。リンさん」
 欠伸を噛み殺しながら、千尋は障子の隙間から顔をのぞかせた。三人の男子達はそれぞれの貢ぎ物を差し出そうとするも、難癖をつけ合うものだから、またしても険悪な空気が漂い始める。
「今日という今日こそは、我慢がならぬ。そなた達の目に物を見せてくれよう」
 柳眉を逆立てて声高にそう言い放ったのは、ハクだ。
「千尋が私の川に落ちたあの時から、私達は並々ならぬ縁で結ばれている。もうこれ以上誰にも邪魔はさせない」
「聞き捨てなりませんね」
 カオナシがきっとハクを睨み、割烹着を打ち捨てた。
「僕だってあなた達に邪魔されたくはない。千は、僕のものです」
「坊だって、千は渡さないぞ!」
「……ならば、勝負するしかないだろう」
 ハクはガラスの戸を開けると、柵に飛び乗った。二人の好敵手を見下ろす格好で、意気揚々と宣言する。
「最後まで立っていることの出来た者が、千尋を得る。他の者は身を引く。勝敗の条件は、これでいいだろう」
「……わかりました」
 坊は不安げな面持ちをしている千尋を見上げた。
「千、心配しないで。坊はもう赤ちゃんじゃないから、戦えるよ」
 微笑んだかと思うと、指を打ち鳴らし、たちまち十八ほどの青年に長じた。驚きに後退る千尋だが、無論ハクは怯まない。
「母親から魔法を教わったか。しかし、頭の中は所詮子供、負けて湯婆婆に泣きつくような無様な真似だけはやめていただきたい」
「するか、馬鹿!」
 青年となった坊は、激昂して拳を繰り出した。ハクは軽やかにそれを交わしながら、瞑目して念じると、自身も同じほどの背丈の青年に転じた。
「ば、化けたーっ!」
「やだ、ハク様も坊様も素敵……」
 突然現れた美青年達に、湯女達が口々に黄色い声を上げた。リンと千尋は呆気にとられている。
「僕のことを忘れてもらっては困ります!」
 カオナシは黒い水干の袖を襷掛けすると、どこからともなく薙刀を出現させ、それをハクと坊に向けて突き出した。二人も同じく武器を出して攻撃を防ぐ。障子が次々に薙ぎ倒され、湯女達が悲鳴を上げた。
「こんな狭い所で、そんな物騒なもん振り回すんじゃねー!」
 リンの怒声に、ハクが武器を捨てて駆け出した。柵を飛び越え、瑠璃色の海に向かって真っ逆さまに落ちていく。
「ハ、ハクーっ!」
「落ち着いて、千。ハク様は龍なんだから、大丈夫」
 血相をかえて柵に縋り付いた千尋に、カオナシが優しく声を掛けた。かと思うと、矢庭に自身も柵から飛び降り、落ちていきながら両腕を広げると、人ほどの大きさの黒鳥になった。
「そうか。カオナシも、銭婆のところで魔法を習ったんだな」
「坊」
「この戦い、絶対に負けられないぞ」
 遅れをとった坊が吊眼をさらに吊り上げて柵に立ち、火炎をまとった赤獅子に転じた。そのまま空中を駆けて、攻防を繰り広げる白龍と黒鳥に向かっていく。今や他の階の従業員達までもが起き出して、その三つ巴の戦いを観覧していた。
「どうしよう、リンさん。とめなくちゃだめだよね」
「いや、あのまま好きにやらせておけよ」
 おろおろする千尋の肩をぽんぽんと叩いて、リンは肩を竦めた。
「だってしょうがないだろ。あいつら、お前のために戦ってるんだから」
 赤獅子が噴く業火を、白龍が操る水柱を、黒鳥が吹かせた突風を、それぞれがうまく交わしていく。一時間後、結局空中戦での勝敗はつかなかったようで、三人はさすがに疲れた様子で太鼓橋に降り立った。
 欄干に寄り掛かりながら、カオナシが額に浮かんだ汗を拭う。
「たかが子供とあなどっていましたが、なかなかやりますね、坊」
「どうやら私もそなたを見くびっていたようだ。湯婆婆から魔法を習っていることは知っていたが、まさかこれほどに上達していたとは」
 坊は全身から火の気を振り落としながら、にやりと笑った。
「お前たち、のんきに感心してる場合か?勝負はまだ終わってないぞ」
 入口の暖簾から、千尋が駆け出してきた。
「みんな、大丈夫?怪我してない?」
「大丈夫だよ。心配をかけたね、千尋」
 すかさずハクが千尋の手を握った。童子姿のままでも充分見目麗しいが、成長したハクはより一層匂い立つように美しく、透き通った瞳に見詰められて千尋は赤面した。
「あっ。色仕掛けなんて卑怯ですよ、ハク様!」
「手を離せよ!」
 ハクは愛おしそうに千尋を眺めたあと、勝ち誇った笑みをカオナシと坊に向けた。
「ごらん、千尋のこの顔を。千尋が誰と心をともにしているかは、火を見るより明らかだろう?」
 カオナシは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、坊の威勢は衰えなかった。
「ハク、お前は自分が上役だからって、千がいやだと言えないのをいいことに、そうやって無理矢理迫ってるんじゃないか?」
「誰がいつ、無理矢理迫った?」
 さすがのハクもこれには顔色を変えた。
「私は、おのれの権力を振り翳して千尋に迫ったことなど、断じてない」
「でも、千がどう思ってるかはわからないじゃないか」
 黙っていたカオナシが辛辣に呟いた。
「坊の言うことも一理ありますね。この油屋において、ハク様は湯婆婆様に次ぐ権力者。小湯女の千が抗える相手ではない」
「ちょ、ちょっと待って、二人とも」
 慌てて千尋が割り入った。
「ハクがそんなことするわけないよ。それに、わたし、ハクが上役だからって遠慮なんてしてない。わたしがいやって言ったら、ハクはちゃんと聞いてくれるよ」
「千尋……」
 ハクは心動かされた様子で千尋を見下ろした。ばつが悪くなった坊は、油屋に向かって駆け出した。
「今度は中で勝負だ!」
 カオナシが追い掛けていき、その後に続こうとしたハクの袖を、千尋はつかんで引き止めた。
「ハク、さっき言ったこと……本当だからね」
 いつになく真剣な表情で、千尋は言った。
「上役だから、とか、命の恩人だから、とか、そういう理由でハクのことを拒まないわけじゃないから……」
 ──では、何故私の求愛を拒まない?
 ハクはその答えを聞きたくてたまらなかったが、それは勝利を得てから聞くべきだと、自らをさとした。
「必ず、勝つよ」
 力強くそれだけを言い残して、ハクは風のように駆けていった。
 三人は座敷の間に集まった。始業まではまだ時間があるが、従業員達は既に身支度を済ませて見物に来ている。
「さて、次はなにを競う?」
「こういうのはどうでしょう」
 カオナシが、絢爛豪華な部屋の装飾を見渡しながら言った。
「幻術を使って勝負する。まぼろしならば、この部屋を傷付けることもないでしょうから」
「しかし、戦う私達自身には打撃を与える幻術……そうだろう?」
 カオナシは頷いた。
「これは真剣勝負なのですから、身体を張らなければ、迫力に欠けます」
 そして手を上げると、壁に描かれた瑞鳥を呼び寄せた。孔雀に朱雀に鸚鵡に鸚哥、みながけたたましい鳴き声を上げながら、ハクと坊に襲いかかってくる。
「坊だって、負けないぞ!」
 坊はまじないを唱えて、襖に描かれた赤鬼青鬼黄鬼、そして風神雷神を召喚した。雷神の落とした雷をよけながら、ハクも素早く印を結び、屏風に描かれた青海波と白波を溢れ出させる。
「なんたる恐ろしさ、さながら地獄絵図のようじゃ……!」
 父役を筆頭とする見物人達が息を呑むのも無理はなかった。鳥の鳴き声が耳をつんざき、鬼のこん棒がところかまわず振り落とされ、海水が渦巻く部屋の中で、三人は逃げまどいながらも一心不乱に幻術を続けているのだから。
「これ、本当にまぼろしなの!?」
 ハクの白い頬を鸚哥の羽が掠めていき、そこから血が流れ出したのを見て、千尋は気が気ではなかった。
「もう、やめて!」
 千尋の絶叫は、たしかに三人の耳に届いていたが、しかし術をやめる者はいなかった。ここでやめてしまっては、確実に負ける──。
 渦に呑まれながら、カオナシが手を上げた。天井に描かれた花々が息づいて動き出す。凌霄花が蔓を伸ばしてハクと坊を縛め、百花の花々は花粉を落として二人の目を曇らせた。さらに瑞鳥が猛攻を仕掛けてくる。遂に坊が力尽きた瞬間、猛威を振るっていた鬼神雷神は霞となって消え失せた。
「坊!」
 坊はもとの子供の姿に戻って気を失っていた。千尋はまぼろしの中に分け入って、坊を掻き抱き、襖のそとへ連れ出してやる。
「さ、この薬湯を飲ませてやれ」
 釜爺から椀を受け取り、千尋は坊の口元に薬湯を流し込んでやった。魘されていた坊はすぐに安らかな表情になり、こぼれる寝息も規則正しいものになった。
「愛の力だなあ……」
 カオナシとハクの攻防を眺めながら、しみじみと呟く釜爺に、千尋は深い溜息をつく。
「……わたしの気持ちも知らないで、好き勝手やっちゃうんだから」
「うん?」
「な、なんでもない」
 ハクは壁から麒麟を呼び寄せて、天井から伸びる凌霄花の蔓を噛み切らせていた。しかし、カオナシがとうとう渦の中に沈んでいき、瑞鳥や百花のまぼろしが消えたのを見届けて、緊張の糸がふつりと切れたらしい。童子姿に戻って、畳の上に倒れ臥し、そのまま動かなくなった。
 気が付いた時、ハクはカオナシや坊とともに、釜爺のボイラー室に横たえられていた。
「まだ動いちゃだめ」
 起き上がろうとして、牽制される。
「千尋……」
「無茶したら、だめだよ」
 千尋の温かい手がハクの頬に触れる。ハクはその手に自分の手を重ねて、再び目を閉じた。
「……そなたを手に入れるためなら、私はどんな無茶もいとわないよ」
 こうして勝鬨はハクに上がったが、カオナシと坊が言質通りに引き下がることはなく、約束をたがえられたハクはまたしてもこの二人と攻防戦を繰り広げる羽目になるのだった。





end.
×