夢幻白夜 | ナノ

夢幻白夜




 その日、珍しく桜は夜更かしをしていた。
 そろそろ寝ようかと思った矢先に面白そうなテレビ番組が始まってしまい、つい電源を消すタイミングを逃してしまったのだ。その番組が終わった時には、時計の針は既に深夜二時を回っていた。
「いけない。今度こそ寝なくちゃ」
 桜は抱きしめていたクッションをソファーに戻して、リモコンを探した。テレビの画面は既に砂嵐に切り替わっており、耳障りな音が照明を落としたリビングに響いている。
「おかしいなー、この辺に置いたはずなのに」
 暗がりの中あちこち手探りで探す桜だが、リモコンがなかなか見付からない。諦めて主電源を落とそうと立ち上がった、その時だった。
 画面の砂嵐がぴたりと止んだ。替わりに映し出されたのは、よく見知った赤髪の男だった。
『現世の皆さん、こんばんは!お元気ですかー?』
 人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて桜に向かって手を振っているのは、りんねの父であり、悪の巣窟・堕魔死神カンパニーの社長である、六道鯖人だ。背後の旗に、丸で囲まれた「堕」の印がでかでかと押されている。マイクの側には髑髏のオブジェが飾られ、ぜんまい仕掛けの人形がデスクの上を意味もなく行ったり来たりしている。身振りや声音に抑揚をつけながら、目に見えない視聴者に向かってぺらぺら喋り続ける鯖人。いかがわしい通販の宣伝のような胡散臭さが隠しようもなく漂っていた。
「……おとうさん、何やってるんだろう」
 またお決まりの悪巧みに違いないが、まさか現世の地上波にまで進出していたとは夢にも思わなかった。明日六道くんに報告しなくちゃ、と桜は溜息をつく。新たな頭痛の種が増えるだろう彼のことを思うと不憫だった。
 息子の気苦労も知らずに、液晶の中の男はとぼけた身振りをしている。
『おっと、もうこんな時間だ!残念だけど、そろそろお別れの時間です』
 鯖人は片方の袖口をごそごそ探りだしたかと思うと、そこから紐で吊った五円玉を取り出した。口元に、邪笑が浮かぶ。
『おやすみなさい、現世の皆さん。……どうかいい夢を』
 ゆらりゆらり、振り子の動きで五円玉が揺れる。見てはいけないと気付いた時にはもう遅く、意識は完全に催眠術にかけられていた。睡魔によって深い眠りに落ちていく。眠れ、眠れ、眠らなくちゃ――。


「――くら、…真宮桜」
 眠りに落ちてほんの数秒で目が覚めた。少なくとも桜自身はそう感じた。
 目を擦りながら顔を上げる。前の席の生徒の向こうに黒板が見えた。かりかりかり、シャーペンの音が教室に満ちている。どうやら今は授業中らしい。蛍光灯の明かりが寝覚めの目に眩しかった。
「もしかして寝不足か?珍しいな」
 小さく笑う声がして、桜は横を見た。机に頬杖をついたりんねがもう片方の手でシャーペンを回しながら彼女を見ていた。青いブレザーを椅子の背に掛けて、シャツのボタンを少し開け、ネクタイを緩めている。違和感を覚えるより先に、口から言葉が飛び出した。
「六道くん、ジャージは?」
「ジャージ?」
「いつも着てた、あの黒いジャージは?ほら、中学の時のだって…」
「中学のジャージ?あー…どこにやっただろう。卒業してから出してないからな」
 りんねは困ったように肩を竦めた。なぜそんなことを聞くんだと言わんばかりの表情。桜は狐に包まれたような気分になる。
 授業終了のベルが鳴った。立ち上がりざま、ブレザーを肩に掛けたりんねが臆面なく桜の手を取った。
「うちに来ないか?」
「えっ?」
「おばあちゃんが、真宮桜に和菓子を食わせたいらしい。今日は予定はないんだろう?」
 おばあちゃん?魂子さんが?でも六道くん、魂子さんとは別居してるんじゃなかったっけ?混乱する桜とまだ彼女の手を握ったままのりんねの間に、十文字翼が憤然と割り入った。
「六道、抜け駆けは卑怯だぞ!」
「卑怯?なんのことだかさっぱり分からんな」
 しれっと目を逸らすりんねに、翼はなおも食ってかかる。桜は教室の後方に視線を移した。四魔れんげが、じっと彼女を見詰めていた。
「れんげ」
 桜の呼び声に、りんねと翼が同時に振り返った。が、二人にはどうやられんげの姿が見えていないらしい。それどころか、
「れんげって誰だ?」
 などと言い出して桜をより一層混乱させた。
「れんげは私達のクラスメートだよ。ほら、堕魔死神の……」
「堕魔死神、だと?」
 りんねの眼差しが氷点下まで冷え切った。桜は慌ててごまかそうとしたが、側までやって来たれんげが唇に人差し指を当てて黙るよう促した。
「桜。あんたは今、夢幻白夜の中にいる」
 気付けば周囲は水を打ったように静まり返っていた。どこからともなく差し込む光が、桜の目を眩ませた。
「悪いことは言わないわ。ちゃんとこっちへ戻ってきた方がいい」
 れんげが手を差し延べた。けれど桜はその手を取らず、それどころかれんげに背を向けて走り出していた。
「馬鹿、せっかく親切心を起こしてやったのに!」
 それでも桜は振り返らなかった。頭の中で揺れる五円玉が、ここに留まることを促していた。


 今度はごく普通の一軒家の前にいた。門のところに「六道」の表札が掛かっている。傍らのりんねがインターホンを押す前に、扉が開いた。中から彼の祖母・魂子が顔を覗かせた。
「あらあら、桜ちゃんじゃない!」
 桜を見て魂子は嬉しそうに手を叩いた。
「いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ、ちょうど美味しいお菓子があるのよ〜〜」
「お邪魔します、魂子さん」
 靴を脱いで玄関に上がると、奥から二匹の黒猫が駆け出してきた。小さい方はりんねの契約黒猫・六文、大きい方は――
「いらっしゃい、真宮桜ちゃん」
 どうやらりんねの父・鯖人の契約黒猫のようだ。桜が六文を抱き上げると、羨ましそうに足元にほお擦りしてきた。りんねがその黒猫を抱いてやるが、黒猫はどこか不服そうで、その様子にりんねを除く三人は思わず吹き出した。
 リビングでお茶と和菓子をご馳走になりながら、桜は六道家の人々と他愛もない話に興じる。ごく普通の一軒家に住む、少し変わった一家。死神の祖母と父を持つ、自身も死神の少年。死神の仕事は順風満帆で、不自由は何ひとつないという。
 桜は心の安らぎを感じていた。少年らしく屈託のない表情をしたりんねが、とても眩しかった。
「これでいいんだよね、六道くん」
 隣に座っているりんねが、少しだけ首を傾げた。桜は彼の手を握りしめた。
「夢の中でもいい。六道くんが、そうやって幸せでいられるなら――」
 頭の中で、五円玉の動きがぴたりと止まった。
 突然、りんねの顔が強張った。同時に、桜は背後に不吉な暗闇の気配を感じた。
「振り向くな、真宮桜。……振り向いたらあの世に引きずり落とされるぞ」
 険しい表情でりんねが告げた。いつの間にか、見馴れたジャージ姿に戻っている。
「夢だったんだ……」
 桜は途方に暮れて呟いた。ひどく落胆していた。夢は暗闇に掻き消えていく。
「真宮桜、聞いてくれ」
 焦ったりんねが桜の手を強く握り返した。桜はゆっくりと顔を上げる。
「俺はお前が心配するほど不幸なんかじゃない。むしろ、真宮桜、お前のおかげで俺は――」


 目覚めると、今度は誰かの背におぶさっていた。肩には黄泉の羽織が掛けられている。住宅街に建ち並ぶ家々の彼方に、落日が燃えているのが見えた。長い影がアスファルトに伸びている。
「……おやじがすまん、真宮桜」
 りんねがぽつりと呟いた。
「あいつ、電波ジャックしてたらしい。現世のテレビにカンパニーの番組を流して、視聴者に催眠術をかけていたんだ。おおかた、視聴者が完全に夢に落ちたところを見計らって、魂を奪いに来るって魂胆だろうな」
 桜は黙って聞いていた。
「学校に来てからずっと、お前は眠ったままだった。れんげに電波ジャックのことを聞くまでは、原因が分からなかったんだ」
 りんねは立ち止まった。
「おやじがかけた催眠術は、かけられた者が最も強く望む夢を見せる、というものだったらしい」
 りんねは少し聞きにくそうに、けれど聞くことをこらえきれない様子で、尋ねた。
「――真宮桜。お前が見た夢は、どんな夢だった?」
 桜は微笑んだ。
「いい夢だったよ、とっても」
「……」
「誰かさんがずっと幸せでいられる夢」
 でもね、と桜は続けた。
「夢よりも、やっぱりこっちの方がいいみたい」
 ややあってから、そうか、とりんねは呟いた。その耳がほんのりと染まっていた。


 なお、この一件で息子に散々小突き回された堕魔死神カンパニー社長は、以降現世の電波ジャックからはきれいさっぱり足を洗ったとか。





end.

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