酒呑童子 | ナノ

酒呑童子




 事の発端は些細な口喧嘩だった。可愛い妹分に何かと親切を焼いては二人きりにならんと画策する「下心丸出し」な龍の少年にリンが業を煮やし、喧嘩を吹っ掛けたのだ。
「千に近寄るんじゃねえっ、この変態龍!」
 勤務中はなにがなんでも鉄仮面に徹しようと心掛けてきたハクも、こうも言われては流石に頭に来た。
「誰が変態だ。上司に向かってその口の利き方はなんだ、リン」
「上司もなにも関係ないね。あたいは事実を言ってるだけだ」
「私のどこが変態なのだ。……いいから、早くそこを通しなさい」
「通すか、阿呆!妹分を変態の毒牙から守るのは、姉貴分の務めなんだからなっ」
 ハクは美貌の顔を歪めてぎりぎりと歯軋りした。この女狐め、と苦渋に満ちた声で吐き捨てる。
「そんっなに千と二人きりになりたいんなら、オレの屍を越えて行け!」
「……そなたのごとき小娘が、この私に勝てるとでも?」
 背中で龍の鉤爪を鳴らし凄みを効かせるハクだが、そのたおやかな童子姿ではいかんせん迫力に欠ける。ガキの虚勢かとリンは鼻で笑い、正々堂々と宣戦布告した。
「ハク。今夜、オレと飲み比べで勝負しろ!もしてめえが負けたら、二度と千と二人きりにはさせないから、覚悟しとけ!」
 飲み比べで勝負とは、随分見くびられたものだ、と内心ハクは嘲笑した。が、愛しい千尋との間に立ちはだかる障壁は、なにがなんでも取り除かなければならぬ。表情を引き締めて頷いた。
「いいだろう。……その代わりそなたが負けたなら、二度と私と千尋の恋路に口を挟まぬと誓え」
 何も知らない千尋だけが、呑気に鼻歌なぞうたいながら、風呂釜の掃除に勤しんでいた。


 閉業後、「鬼神の間」には大勢の従業員が詰め寄せた。襖に酒呑童子が描かれた、割とランクの高い客室である。真ん中にはハクとリンとが向き合って正座しており、なにやら異様な空気を発していた。未だよく事情を飲み込めていない千尋が、睨み合う二人の間で、戸惑いがちに視線を右往左往させている。
「そのちっこい身体で、オレに挑もうなんて百年早いぜ」
 リンが朱色の盃を差し出した。千尋はわたわたと沢山並べられた徳利のうちのひとつを取り、酌をした。それをリンは一気に飲み干す。おおっ、と観衆がどよめいた。
「私に向かってそのような大口を叩いたこと、必ずや後悔させてみせる」
 ハクは千尋の手から徳利を受け取ると、息継ぎもせずに並々注がれた酒を呷った。皆が目を剥くなか、空になった徳利を畳に置き、彼は余裕の微笑を浮かべる。
「どうした、リン。この程度で驚くようでは先が思いやられるぞ」
「……へっ、誰が驚くかよ!」
 リンは側にあった徳利を引っ掴んだ。負けじとハクも更に大きな酒瓶に手を伸ばした。
 そこからは、まさに酒呑童子の呪いが降り懸かったとしか思えぬほどの荒れようであった。
 酔いの回ったリンは散々ハクへの愚痴をぶちまけた後、大鼾をかいて眠りこけてしまった。雰囲気に乗せられた野次馬達までもが、酔っ払って騒ぎ出す始末だった。宴会のような騒ぎの中、しらふでいるのはハクと千尋の二人だけだ。
「すごいねハク、あんなに飲んだのに全然平気そう……」
 ハクは常とまったく変わらぬ涼しげな顔で千尋に微笑みかけた。
「これくらいの酒で参ってしまっては、龍の名が廃るよ。――さて」
 ハクはおもむろにすっと立ち上がった。かと思うと片膝を付き、千尋を軽々と抱き上げた。
「ハ、ハク!?」
 ハクは清らかな笑みを浮かべる。
「勝負に勝ったのだ。これで心置きなく、そなたと二人きりになれる」
「えっ……」
 千尋は身の危険を感じて辺りを見渡した。が、皆べろんべろんに酔っ払っており、誰も助けてくれそうになかった。
「待って、ハク、ちょっと待った」
「待ったはなしだよ、千尋」
 ハクは突然笑い上戸になったようにクスクス笑い出した。かと思うと不意に真顔になり、襖に向かってきびきびと歩き出す。
「……邪魔者が起きないうちに、引き上げてしまおう」
 心の中で悲鳴を上げる千尋だったが、襖はぴしゃりと閉められ、あとは赤ら顔の酒呑童子に見守られて泣く泣く昇降機に乗るしかなかった。





end.
×