玉手匣 | ナノ

玉手匣




 夢がぷつりと途切れて、桜は唐突に目が覚めた。
 常夜灯の一点の光が薄闇の中でちらついている。パジャマの袖で目を擦りながら、桜は隣を見た。そこには、彼女に腕枕をしながら、規則正しい寝息を立てるりんねがいる。その頬を桜は指で軽く突いてみるが、彼の呼吸は乱れない。耳元で小さく呼び掛けても、やはり固く閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。赤い髪をそっと撫でつけながら、彼女は微かな溜息をついた。
 ……嫌な夢を見てしまった。最近は、どうも夢見が悪い。
 いつも夢の中で誰かが啜り泣いている。それは聞き覚えのある声に違いないのだが、どういうわけか、目が覚めるとよく思い出せなくなっている。
 誰かがかけた呪いか、祟りか。はたまた夢魔の仕業か。彼が起きたら今度こそ相談してみよう……そう思うとにわかに気が楽になり、桜は再びまどろみ出した。
 入れ代わりのように、りんねがゆっくりと瞳を開けた。
 彼は音を立てずに常夜灯を消して、暁闇に目を凝らした。何も見えない、しかし、微かな声が聞こえた。……それは誰かの啜り泣く声だった。
 りんねは、桜を守るように抱き寄せた。あまり強く掻き抱いたせいで、彼女が微かに身じろぎした。
「どうしたの、六道くん」
「……」
「そんなにきつくされたら…苦しいよ」
 それでもりんねは、腕に込めた力を緩めようとしなかった。
「――どこにも行くな、真宮桜」
 ずっと傍にいてくれ。
 切なる願いを、彼は桜の耳元で呟いた。その声がまるで泣いているかのように震えていて、なぜか桜は既視感を覚えた。


 数日後、押し入れを片付けていた桜は、奇妙なものを発見した。それは玉虫塗りの高級そうな箱だった。蓋のところにはまばゆいほどの金箔で、桜の木と鶯があしらわれている。
「ねえ、この箱ってなに?すごく綺麗だね」
 死神の鎌を手に帰宅したりんねに早速それを差し出すと、彼はさっと顔色を変え、鎌を取り落とした。
「お前――これを開けたのか!?」
 必死の形相で詰め寄ってくるりんねに、なにかただならぬ雰囲気を感じながらも、桜は首をぶんぶんと横に振った。
「あ、開けてないよ。……そんなに大事な物が入ってるの?
「……」
「中には一体なにが……」
「お前には関係ない」
 みなまで言わせず、りんねはぴしゃりと冷淡に言い放った。しかし、衝撃を受けた様子の桜を見て、辛そうな表情になる。
「すまん、……言い過ぎた」
 彼は素直に頭を下げた。身体の横で、握り締めた拳が震えていた。慌てて桜はぎこちない笑顔を繕った。波風は立てたくなかった。
「ううん、私の方こそ…勝手に触ったりしてごめんなさい」
 彼女は謎の箱を、押し付けるようにりんねの手元に返した。しかしその箱が手を離れて行く刹那……中から微かに声が聞こえたような気がして、彼女は凍り付いた。
「……今、声がしなかった?」
 その箱の中から。
 いや、と彼は不自然なほどの早さで答え、小さく首を振った。
「――この玉手箱は、絶対に開けてはいけないんだ」
 気付けばりんねの目がすぐ近くにあり、透き通った真紅の中に桜自身の輪郭が見えるほどだった。
「それを開けたら、どうなるの」
 中に何かがいる。その箱の中に。
「開けたら終わりだ。……なにもかも」
 哀調を帯びた声で、りんねは囁いた。その手元で、玉手箱の蓋がかたかたと、微かな音を立てた。


 どうも腑に落ちない。やはりりんねの様子がおかしいと桜は感じていた。どうしても気になって、その後もそれとなくあの夢のことや玉手箱のことを聞いてみた。だがその時の彼の反応たるや、石に聞いた方がまだましだった。
 そんなりんねの態度に、桜はむしろより一層憶測を深めた。彼は絶対に何かを隠している。それもきっと、彼女には知られたくない何かを。長いことりんねに寄り添ってきた桜には、それがよく分かった。
「……あれ?」
 一瞬、何か違和感を覚えて桜は立ちすくんだ。いつからりんねと暮らし始めたのか、記憶をいくら遡っても思い出せない。
「というか…そもそも私、どうして六道くんと住むようになったんだろう?」
 今まで気にも留めなかった。けれど一度考え出すと止まらない。芋蔓式に様々な疑問が溢れてきて、彼女は心に嫌なざわつきを覚えた。
 桜は風に揺れる風鐸を見上げた。そして振り返り、かたかたと音を立てる花鳥柄の襖、風を通す欄間の透かし彫り、それから掛軸に描かれた五色の妙声鳥へと、順繰りに視線を滑らせていく。
 長い間、りんねと二人で暮らした家だ。それなのに、嫌な胸騒ぎが高まるにつれて、慣れ親しんだ光景がやけによそよそしいものに感じられてくる。
 彼女の背後で、聳え立つ満開の桜の木が、淡い春色の霞を纏っていた。枝にとまった鶯が高らかに啼く。遥か彼方で、輪廻の輪が回っている。
「ああ……」
 ごとん、ごとん。数多の魂を巻き込みながら、今日も輪は回転を続ける。
 ……私がここにいるはずがない。なのに何故、私はここにいるんだろう。
 朝も昼も夜もない。時間の境界がない。季節のうつろいもない。庭の桜は永遠に咲き続け、枝に止まった鶯は啼き続け、輪廻の輪は回り続ける。――ここは全ての流転が止まった世界。生きた人間が入ってはならない世界。
 桜は駆け出して、押し入れの襖を勢いよく開けた。奥に追いやられたあの玉手箱を掴み寄せると、開けてくれと言わんばかりに、蓋がかたかたと音を立てた。
「――真宮桜、それを開けるなっ」
 蓋に手をかけた瞬間、後ろから桜を包み込む温もりがあった。それは遥かな昔から、彼女が何よりも愛おしんできた温もりだった。
「開けてしまったら、お前はっ――」
「分かってる。……ごめんね六道くん」
 彼女は目の端から一粒の涙を零した。振り返って、今にも泣き出しそうな顔をしているりんねの頬に、唇を寄せる。
「ごめんね。――さようなら」
 やめろ、とりんねは絶叫した。しかし止めようと伸ばした手はわずかに届かず、遂に玉手箱は開けられた。
 ――中からは白く冷たい煙が立ち上った。それはやがておさげ髪の少女の形になり、啜り泣きながら、桜の身体を通り抜けていった。途端に彼女の身体は肉を失った骨と化し、ばらばらと崩れ落ちるその骨すらも、畳に落ちる刹那に塵芥となって、いずこへと消えた。


 ……傍にいるって約束したのに、ごめんね。
 茫然と畳に腰を落としたりんねの耳に、空の玉手箱からそんな声が聞こえたような気がした。





end.


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