夕月夜暁闇 月が見えはじめた時、日暮れを待っていたかのように、森の中に山犬の遠吠えがこだました。サンは自らの膝に頭を預けて眠る青年の頬を、軽く叩いた。果たして彼は微かな呻き声を上げて、うっすらと目を開ける。 「……どうした?サン」 「……聞こえるか?あの子達が、私を呼んでいるんだ」 「そなたの兄弟達か?」 「ああ…。そろそろ帰らなくちゃ」 サンは立ち上がろうとした。しかしアシタカは、なにがなんでも行かせまいとでもいうように、彼女の細腰を捕まえて放さない。 「な、なにをする」 顔を赤らめるサンに、アシタカは悲しげに告げた。 「そなたが行ってしまうと思うと、名残惜しいのだ」 「そんなこと言ったって…また明日会えるじゃないか」 「……明日までなど、待てぬ」 アシタカはサンの薄い腹に顔を押し当てた。今宵の彼は珍しく聞き分けが悪い。けれど、たまにはそんな我儘のひとつも言ってくれれば嬉しい、と思う。月に照らし出された形良い耳に触れながら、現金な自分にサンは苦笑した。 「アシタカ。それなら、夜明けまで一緒にいようか」 「……」 「こんな岩の上で寝て、身体が痛くならなければいいけど」 サンは笑った。しかしアシタカは笑わなかった。半身を起こし、至って真剣な表情で彼女を見詰める。 「サン」 「どうした?アシタカ」 些か気圧され気味のサンを、アシタカはそっと抱き締めた。隆々とした腕にはそぐわぬ優しい感触がした。 「そなたといる時だけ、私は東の国を偲ぶことが出来るんだ。タタラ場で生きる今の自分を忘れて、髷を結っていたあの頃の私に戻れる気がする――」 サンはぎこちなく、アシタカの背に腕を回した。彼は安堵の溜息をつき、彼女の耳元で言葉を継いだ。 「……今夜は暁闇が明けるまで側にいてくれ。山犬達には、明日私が詫びるから」 夜伽話に、東に伝わる古い物語を聞かせるよ。そう言って、月を見上げながら、彼は穏やかに微笑した。 end. 200000Hit Requested by 椿様 back |