この夜な明けそ 暁闇の中をこうしてひとり忍び歩くのに、恐れも躊躇も感じなくなったのは、一体いつのことだっただろう。 千尋は迷いなく上行きの昇降機のボタンを押した。こんな夜更けに昇降機の動く音がしたら誰かに気付かれるかもしれない、などとおののいていたのは、やはりもう遥か昔のことだ。 天上階より一つ下の階で昇降機の朱塗りの扉は開く。通り過ぎるものを睨み付けるかのように描かれた風神雷神鬼神の襖の前を、千尋は少し小走りに進んでいく。襖の絵を恐れているのではなく、目的地になかなか辿り着けず焦れているのだった。真っ直ぐに続く細長い廊下を折れ曲がり、またひとつ折れると、背後に連なる宴会の間は姿を消し、廊下がぐにゃりと歪んだ。ハクが掛けたまやかしだ。ハクの所へ行きたい、ハクの所へ通じて、と千尋は心の中で繰り返し唱える。やがてまやかしは消え、美しい龍神が彫刻された銅の扉が廊下の果てに現れた。 「おはいり、千尋」 千尋が触れる前に扉がぱっと開いて、部屋の主が微笑みながらかいなを広げた。 「おはいり、じゃないよ。あの廊下のまやかし、いい加減やめてくれたらいいのに」 ぶすくれながら千尋は訴える。 「そしたら…もう少し早く会えるのに」 秀麗な青年は喜びをあらわにした。かいなに彼女を閉じ込めて頬を擦り寄せる。 「千尋は本当にかわいいね。そんなに早く私に会いたいと願ってくれたのかい?」 「あ、当たり前でしょ。それよりハク、苦しいよ」 顔を赤らめた千尋が彼のかいなの中でもがいた。そんな抵抗を難無く押さえ込んでハクはうっとりと彼女の頬を撫でた。 「かわいい千尋。一秒でも早く、私もそなたに会いたかった……」 まるまる一時間ほどを、金平糖を一度に幾つも噛んだかのように甘ったるいやり取りに費やしたあと、漸くハクは、毎夜廊下に複雑なまやかしを掛ける理由を語った。 「あれは人除けのまやかしなんだよ。せっかく千尋が会いに来てくれているのに、誰かの邪魔が入ったりしたら興ざめだからね」 「でもあのまやかしは、わたしのことも簡単には通してくれないよ?」 唇を尖らせる千尋に、水干の留め具を外しながらハクは悪戯っぽく笑う。 「千尋が私に会うために必死になってくれていると思うと、そなたのことがより一層愛しくなるんだよ」 「……つまりわたしは、毎晩試されてるってことね。ハクへの愛を」 千尋はハクの手に指をからめながら、上目づかいに彼を見上げた。ハクは彼女の指を口元に運び、桜色の爪に口づける。 「私は欲張りだから、昨日よりも今日はもっとそなたを愛したいし、そなたからももっと愛されたい。……でも、時間が足りないんだ」 夜はとても短いからね、と、ハクは悩ましい溜息をついた。 「この夜が、明けなければいいのに」 end. ×
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