蛍 | ナノ




 ──恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす。

 六文はほくほく顔で帰路についていた。本日も充分な腹ごしらえが出来たので満ち足りた気持ちだった。仔猫の姿でダンボール箱に入って憐れっぽい鳴き声をあげているだけで、近隣の住民や学生たちは憐憫の情に駆られ食べ物を恵んでくれる。
「りんね様ー、あれっ?」
 しかしクラブ棟に帰ってみると、部屋はもぬけの殻だった。主人の姿は見当たらない。手土産のメロンパンを一刻も早く手渡してあげたかったのに。
 仕方なく、主人を探すために六文は再び外へ出た。校舎の周りをうろついていると、ものの数分でその人物は見付かった。
「りんね様ー!」
 花壇の側に広がる雑草の絨毯の上で背を丸めて蹲っていた少年は、どんよりした顔を従者に向けた。驚いて目を丸めた六文に、
「……おかえり」
 ボソリと呟き、魂が抜けるような重苦しい溜め息をつく。主人の銷沈具合に六文は憂慮を抱きながら、その背に駆け寄っていった。
「どうしたんですか、りんね様?何かイヤなことでもありましたか?」
 従者の問い掛けに、手元の雑草をぷちぷちとちぎりながら、りんねはまたしても鬱々とした吐息をこぼした。
「別に何も……」
「いや、絶対何かあったでしょ」
 すかさず突っ込まれるも、雑草をむしり続ける主人はそれが聞こえていないのかはたまた聞こえないふりをしているのか、ただ頭をがっくりと垂れた。
「メ、メロンパンでも食べて元気出してください!」
 こんな時には何か気を紛らわすものを、と六文が笑顔を繕いながらメロンパンを差し出すと、りんねは目もくれずに首を横に振った。
「いらない…」
 六文をショックが見舞った。雷に打たれたような顔をして、よろけながら数歩後退る。滅多に口にすることのできない高級食品を撥ね付けるほどにこの主人が銷沈するとは、一体何があったのか。
「……十文字のやつ」
 少しいじけた口調で、りんねは独り言のように呟いた。六文が側で聴いていることを忘れるほど深く、自分の思考に閉じこもっているらしかった。
「なぜあんなに簡単に、惚れただのなんだのと言えるんだ。…だいたい、あいつは何に関しても強引すぎる」
 そういうことか、と六文は思わず笑ってしまいたくなった衝動を噛み殺した。普段は歳の割に合わずポーカーフェイスを貼り付けて妙に落ち着き払っているこの主人。それでもひとたび仮面をとってしまえば、そこにあるのは等身大の十六歳の少年の姿でしかなかった。
「いっそのこと、りんね様も言ってしまえばいいじゃないですか。十文字みたいに」
 笑いを抑えた不自然なにやけ顔の六文が唆すと、りんねは草をむしる手をはたととめて眉をひそめた。
「……言うって、何を」
「決まってるじゃないですか。桜さまに、ご自分の気持ちを……」
「俺の何だって?」
 みなまで言わせずに従者の言葉を遮る声は、少しだけ上擦った。にやにやしながら、六文は体育座りしたりんねの脚を肘で小突く。
「あんまりグズグズしてると、十文字のやつに取られてしまいますよ?りんね様」
「バ、バカなことを言うな。大体前にも言ったはずだ。取られるも何も、真宮桜は俺のものじゃない」
「またそんなことを言って。あの魂子さまの血を分けたお孫さまとは思えませんね」
 やれやれといった風情で六文が首を横に振る。その科白を右から左に聞き流して、りんねはまた沈んだ声で呟いた。
「……俺は十文字やおばあちゃんのようにはなれん。思えば真宮桜には世話になりっぱなしだし。…それなのに俺ときたら、彼女に何一つしてやれてないし」
 むしった葉をくるくると指で回しながら、少年は現実に絶望したように肩を落とした。恋わずらいに悩む主人のその姿が、六文にとっては憐れである一方、微笑ましくもあった。

「桜さまー!」
 りんねはすぐさま我に返って振り返った。近づいてくる同級生に向かって、六文が嬉々として駆け寄っていく。
 先程の会話について何か余計なことを言うつもりなんだろうか。だとしたらどうしよう。戦慄したりんねの耳を従者の幼気な声が過ぎった。
「これ、りんね様からのプレゼントですっ」
 りんねは思わず拍子抜けした。桜はメロンパンの入った袋を黒猫から受け取りながら、素っ頓狂な顔でりんねに視線を向けている。
「じゃ、ぼくは用事があるのでこれで!」
 言うが早いか、六文は桜の腕の中から飛び出して地に着地した。一瞬、主人に眼差しを向けてウィンクしてみせる。
「……余計なことを」
 ボソリと呟く声は、駆けてゆく黒猫を見送る彼女の耳には聞こえなかった。
 視界から黒猫の姿が完全に消え去ってから、桜は振り返ってりんねに笑い掛けた。雑草の上で蹲る彼の側まで歩み寄ってゆき、隣に腰を下ろす。
「わざわざありがとうね、六道くん」
「いや、別に…」
 決まり悪そうに彼が視線を逸らすと、桜は透明の袋を開けてメロンパンを取り出した。表面にちりばめられた砂糖がきらきらと光っている。真ん中からふたつに割って、片方をりんねに差し出した。
「全部食べきれないから、一緒に食べよう?」
 りんねは礼を言おうとして口を開きかけた。いつか心を躍らせた笑顔を目にしたその時、思わず別の言葉が出てきそうだった。けれど、やはりのどに閊えてしまい、伝えることができなかった。
 がっくりと肩を落としたとき、腹の虫が小さく鳴った。色々な理由から赤面した少年のすぐ隣で、少女はメロンパンを齧りながらくすっと微笑んだ。





end.


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