無垢




愛しい人よ、どうか永遠につつがなく。



「本当にいいのだね?」
「……うん」
「もう後戻りは出来ない。それでも、いいのだね?」
 晩夏の日暮れ、海の水平線は赤く染まっている。うねりある珊瑚色の長髪を潮風に靡かせながら、海色の縞模様のある衣服を纏った男は、念を押すように聞いた。隣に立つ少女は、同色の腰まである豊かな長髪を揺らしながら、潮騒に聞き入るように瞳を閉じている。
「後戻りなんてしない。もう、決めたことだから」
 まだ幼さの残る声で、少女は囁いた。裸足で一歩踏み出して、さらさらの砂の感触を足の裏に感じながら、波打ち際へ近付いてゆく。その背をちらりと一瞥して、男はやる瀬なくなったように睫毛を伏せた。靴で踏み締める砂を見下ろす。白く細やかな砂。少女が歩くたびに微かな音を立てる。確かこれは鳴き砂、と言うのだったか。――あの子の心も泣いているのだろうか。
「ポニョ」
「なに?フジモト」
「本当に…後悔はしないのか?」
「フジモト、さっきから何回も同じこと聞いてる」
 ポニョと呼ばれた少女は悲しげに微笑した。幼い頃の、あの弾けるような屈託ない笑顔は、一体どこに行ってしまったのだろう。笑顔の良く映えた愛らしい子だったのに。長じるにつれて、海と人との軋轢を知っては憔悴し、すっかり薄幸そうな面差しが定着してしまった。あの偉大なる海の母・グランマンマーレを偲ばせる美しい顔からは、本当の笑みが消え去って久しい。
 フジモトは唇をきつく噛み締めた。こんな結末を迎えさせるために、大切な娘をあの人間の少年に預けたのではない。一体なぜ、どこで、どのようにして、歯車は狂ってしまったのか。それとも数えて五つのあの夏、二人が出会った時から、既に狂い始めていたというのか。
「ポニョ、海に帰るの。だってそこがポニョの居場所だから。……ブリュンヒルデに戻るよ」
 ポニョは長い髪を片手で掴むと、もう片方の手の人差し指を空で滑らせた。しゅっと空を切る音と共に、肩から下の髪が分断される。鋭利な音に驚いたフジモトが顔を上げた。振り向いたポニョの手から、髪の束が垂れているのを見遣って、彼は窪んで隈の浮かぶ目を見開いた。
「ポニョ、お前…もしや…」
「そう、おまじないを掛けたいの。それもずっと、ずーっと続くおまじない」
 ポニョは瞳を閉じると、何事かを囁いた。しかし潮騒に邪魔されて、フジモトにはそのまじないの言葉を聞き取ることが出来ない。一瞬の後には、役目を終えた髪の束は霞のように掻き消えていた。ポニョの肩口で、切り揃えられた髪が揺れる。彼女はフジモトを見てはいなかった。その先の遠い遠い何かを――恐らくはあの崖の上にある小さな家を、海に背を向けて、じっと見つめていた。瞳に沢山の涙を浮かべながら。
「続くといいな、ポニョの掛けたおまじない。ずっと…ずっと…」
 ポニョはくるりと後ろを向くと、砂を蹴り、海に向かって駈け出した。珊瑚の髪が輝いて、フジモトは眩しさに目を強く擦った。
 ブリュンヒルデに帰ったポニョは、海に沈んでいった。恐らく永遠に、彼女が再びこの水底から浮かび上がることは無いだろう。そう遠くない過去、親の追跡を逃れてまで陸で生きようとした娘の姿が、もうこんなに懐かしい。フジモトは瞼を指で押さえた。

「……永遠に無垢であれば、よかったものを」

 いつの日か口をついて出た囁きが再び、唇から零れ落ちた。




end.

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