手鞠花




 雨戸を閉めようとしたハクの目に、ふと、生垣のそばで咲く手毬花がとまった。
 色が雪のように白く、その名の通り手毬のような形をした花で、帰還祝いにと沼の底の魔女から貰い受けた種から育ったものだった。
 ……沼の底。油屋。不思議の街。
 しばしの間、郷愁に駆られたハクは遠い目をする。
 今となってはそのすべてが、もう二度と再び辿り着くことのできない、懐かしの地だった。
 否、仮にもしまたあのトンネルが、彼と千尋をあの世界へ通すことがあったとしても、彼等が再びそこへ足を踏み入れることはないだろう。
 ふたり手を取り、人の世界で生きていくことを決めたから。
 ──数年前、交渉の末湯婆婆との契約を破棄することに成功したハクは、人間界へと帰還した。
 千尋と再会する約束を交わして以来、彼はより一層魔法の勉学に励んでいた。寝る間も惜しんで、湯婆婆の書斎にある夥しい数の魔術書を諳(そら)んじ、様々な術の試行錯誤を繰り返した。
 その甲斐あって、依代がなくとも人間界で実体をとどめる術を会得した。今この場で彼がふつうの人間と同じように存在していられるのも、その努力の賜物である。
「お前が向こうへ帰ったら、妹はトンネルに結界を張るつもりらしい。また人間が迷い込まないように。……あの子にもう会えないと思うと寂しいけど、お前たちはもうこちらへは来ない方がいいね。向こうで生きることを決めたなら」
 別れの挨拶をとハクが沼の底を訪れた時、銭婆はこう言って、
「これを家の庭に蒔きなさい。きっとお前たちを守ってくれるはずだから」
 花の種を彼にそっと手渡した。
 無事人間界へ帰還し、千尋と再会し、神前で式を挙げ、新居を構えて、言い付け通り貰い受けた種を庭先に蒔いてみると、それはたった一晩で見事な成長を遂げた。
 以来この手毬花は、季節にかかわらず花開く。たとえば、ハクが術に失敗して大怪我を負ったときや、千尋がつわりに苦しんでいたとき、子どもが夏風邪をこじらせて入院したとき。
 その花が咲くと、決まって家から災厄が払われていく。万事が快方に向かいはじめ、家族に笑顔がもどる。
 それは、かの魔女の魔力によるものであることに違いないが、もしハクがそう言えば、彼女は巨頭をゆすって笑いながら、こう正すだろう。
 なんのことはない、それは愛のなせる力だよ、と。

「おとうさん?」
 手足を土まみれにした息子が、生垣と手毬花の茂みの間からひょっこりと顔をのぞかせたので、ハクの意識は回想から現実へと戻る。
「またその花で遊んでいたのかい?」
 たしなめるように訊くと、悪びれもせずに涼しい顔で子どもはうなずく。
「だってきれいなんだもん」
 ハクは庭先に出て、子どもの目の前にしゃがみこむと、その両脇に手を入れ、思い切り抱き上げた。
「わあっ、たかーい!」
 子どもははじけるような笑顔ではしゃぎ出した。父親と生き写しで造形のととのった子だったが、その笑顔は母親によく似ていた。
 ハクはその子を片腕で抱いて、腰をかがめ、一輪の手毬花を手折る。
 子どもはそれを受け取ると、しげしげと見つめながら、
「またさいたね、お花」
「うん。最近お母さんの具合が良くないからだね。──でも大丈夫、きっとこの花が守ってくれるから」
 そう言ってハクは振り返り、閉じられた障子を見遣った。その奥で千尋は休んでいる。
「ねえおとうさん、おかあさんのおなかの中にいるのは弟かな、妹かな」
 子どもが目を輝かせながらきいてくると、さあどうかなと、微笑しながら、
「どちらにしても、きっと可愛い子が生まれてくるだろうね」
 手毬花にさっと手をかざし、それを本物の手毬に変えてみせる。
 子どもの歓声があがった。
「それで少し遊んでおいで。私はお母さんの様子を見てくるから」
 遊びたくてうずうずしている子どもを地におろしてやり、また少し手毬花の茂みを見詰めたあと、妻の呼ぶ声がきこえたので、ハクは家の中へ戻っていった。




end.


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