千尋






 水のひじょうに深い様子を「千尋」という。


 初めて川に遊びに来た千尋を一目見た瞬間から、あの子は普通の子ではないと分かっていた。
 水の流れに任せて、気ままに川を上ったり下ったりする龍身の私を、千尋は確かに見ていた。その無垢な目でじっと見つめて、こちらへ手を振り、そして笑いかけてくれさえもした。
 近頃、神の見える子はめっきり減った。八百万の神々を畏れ、奉るといういにしえの心構えを、この国の大人たちが忘れつつあるから。
 だから千尋のような子はとても珍しい。神を見、話し掛け、触れることのできる人間など、何百年ぶりに出会っただろう。
 ――千尋が現れてから、退屈だった暮らしにひとすじの光明が差した。
 この子も龍の血を継ぐ仲間なのではないか、前世でなにか縁があったのか、などと願望まじりの有り得ない憶測を深めてしまうほど、いつしか私は彼女に傾倒していた。
 そして慈しみが深くなればなるほど、私はあの子を手放すことをより一層躊躇うようになった。
 日没前に早めに帰りなさいといつも兄のように諭していたのは私自身だったのに、日暮れのぎりぎりまで何かと理由をつけて千尋を留め置くようになり、良心をとがめた私は千尋の前にはもう現れないときめた。
 千尋の呼び掛けを無視して、気ままに川を流れる。上流へ下流へ、川魚や木葉とともに。水中から、視線だけはつねにあの子へ向けながら。
 
 ある日千尋は半泣きの顔で川の汀にやってきた。今日をかぎりにここには来ない、自分は遠いところへ引っ越すのだという。
 つまり川と私に別れを告げにきたのだ。
 私は千尋と一緒になって、忘れていた涙を流した。
 主の哀しみに同調するように、突然水流が激しくなった。しまったと思ったときには既にわが川は千尋の靴を深瀬まで押し流し、千尋自身をも飲み込んでいた。
 ……離れてしまうというのなら、いっそこの川に沈んでしまえ。
 一瞬でもそう願ってしまった自分が私は恐ろしかった。

 浅瀬に千尋を運んでやってから、私はあの子の記憶を消した。川と私にまつわる記憶の全てを。

 否――本当は、記憶を完全に抹消することはできない。ふとした瞬間に思い出してしまうこともある。誰しも一度あったことは忘れられないものだから。
 ――だから私は、自分が千尋の記憶を消しておきながら、いつか千尋が私を思い出してくれることを願った。
 別れを思うと胸が張り裂けるように痛くて、けれど邂逅を祈って心躍る気がするのは、きっと出会ったその瞬間から、私が千尋という少女にとらわれていた証なのだろう。

 この川へ千尋を沈めたいと思ったのに、いつからか私のほうが沈められていた。
 龍ですらそのまなこを曇らせる、――深い深い千尋の底へ。
 




end.


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