残響





 忘れもしないあの夏。



 ――蚊取線香の匂いがする。枕元に置かれたうずまきの端から、朧げな白煙がゆらりゆらりと立ちのぼっている。
 畳の藺草も香る。八十八夜をさらに過ぎてから摘んだ茶の葉も。箪笥から引っ張り出してきた夏服も。氷水でよく冷やしてから切ったすいかも。
 部屋中から夏の香りがする。
 色々なものがまざったその匂いを、鼻先でかぎながら、けれど思い切り吸い込むことはせずに、寝そべったままじっとしていると、蚊取線香が静かに灰を落とした。
 千尋はテレビ枕から頭を起こした。頬を清涼な風が過ぎった。

 ちりぃん。

 風鈴の音がした方を見遣ると、うちわを手にしたハクが窓の縁に座っていた。縹色の浴衣の前をくつろげ、折り曲げた片方の脚に腕を乗せて、日差しを身体の半分に燦々と浴びながら、微笑んでいる。
 彼は千尋に向けてうちわを扇いだ。再び涼しげな風が吹いて、寝汗をかいてほてった彼女の首筋を冷ました。
 手招きされて、千尋はハクの脚の間に座った。彼は手慣れた手つきで彼女の茶髪を結いあげていく。
 出ていくときの風で巻き上げられた簾がかすかに揺れた。
 
 青空を眺めながら飲んでいたサイダーを、ハクが不思議そうに見ているので、千尋は汗をかいたその瓶を彼に差し出した。
 ハクは期待半分緊張半分の面持ちでそれを受け取り、口をつけた途端に軽く噎せた。
 千尋が吹き出した。頭上で風鈴が鳴る。
 ぴりぴりと痺れの残る舌をハクが突き出すと、千尋は悪戯を思いついた子供の顔で、彼の胸倉を自分の方へ掴み寄せた。



 ちりぃん。

 同じ夏は二度と来ない。
 それでもあの夏の残響を胸に、わたしは歩き出す。





end.


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