求愛






 昼過ぎになってようやく従業員たちが起き出すのが油屋という湯屋だ。
 女部屋でともに雑魚寝する湯女たちがめいめい起床して、髪を梳いたり蒲団を畳んだりしているのを横目に、千尋は腹かけの上から桃色の水干を着る。
「千、まかない食いにいこーぜ」
 身支度を整えた姉貴分の狐娘が背伸びしながら言う。途端に千尋は申し訳なさそうな顔になった。
「リンさん、ごめんね。わたし、今日もちょっと始業前に呼び出されてて…」
「またあいつらかよ!?毎日毎日懲りねえ奴らだな!」
 リンは呆れ返って首を振る。
 その時、廊下から地鳴りのような足音がして、障子に三つの人影が映し出された。影たちはなにやら騒がしく言い争っていたが、やがて一番背の高い影が、一番小さい影をぐいぐいと横に押しやる動作をし始める。
「少しそちらへどいてください、坊!」
「うるさい!坊をいじめたらばーばが来て、お前なんかすぐ銭婆のところに戻されちゃうぞ!」
「それはいい。邪魔者がひとり沼の底へ消えてくれれば、大助かりだ」
「……ハク様、今なんておっしゃいました?」
「……他愛もない冗談だ」
「ハクが言うと全然冗談に聞こえないぞ」
 すでに油屋の風物詩となりつつあるこの光景を、湯女たちはにやにや笑いながら見守っている。千尋は穴があれば入りたいという顔付きだ。
 業を煮やしたリンは血気盛んに立ち上がり、どすどすと足音を立てながら障子に近づいていく。
 彼女が障子を思い切り開けると、つかみ合いをしていた三人組はぎょっとした。
「お前ら、毎日毎日うるせーんだよ!やるならよそでやれっ」
 リンが容赦なく喝を入れる。
「リンさん、これも千に相応しい男を決めるためです。どうか怒りをお収めください」
 黒い水干に焦げ茶の短髪、頬には藤色の入れ墨。一番長身の青年がすかさず居住まいを正して腰を低める。少し前から人の形をとって油屋で働いているカオナシだ。
「まあ…千のためっていうなら仕方ねえな」
 リンは気を良くしながら、女部屋の隅でうずくまって存在を消している千尋を呼んだ。
 チビのくせに威張りくさる鼻持ちならない他二人よりも、低姿勢で謙虚なカオナシをリンは好ましく思っている。ハクや坊からしてみればそれすらも、千尋の姉貴分を懐柔するための策略としか見えないが。
「ほら千、そんなところでなに小さくなってんだよ」
「リ、リンさん、わたしはまだ寝てるって言っておいて…」
「いーから行ってこいって!狸寝入りしたってどうせ無駄なんだからよっ」
 リンは女部屋の外にかわいい妹分を押し出して、障子をぴしゃりと閉めた。
「ハクと坊はともかく、カオナシの奴がいるなら任せても安心だな」

 障子一枚を隔てた向こう側では、壮絶な千尋争奪戦が繰り広げられていた。
「迎えにきたよ、千。今日は僕と一緒に花壇の手入れをする約束だったよね?」
 薔薇に紫陽花に芍薬に牡丹、色鮮やかな花束を千尋に向けてカオナシはにっこりと笑った。が、腰丈ほどの背丈の坊に横から突き飛ばされた。
「だめ、千は坊とお遊びしろ!」
 高級チョコレートの箱を幾つも千尋の腕に押し付けて、出会いの頃とは別人のように痩せて小さくなった坊は、彼女のお腹まわりにぴったりと抱き着いた。ハクがその首根っこを掴んで放り投げた。
「千尋、見て。お腹がすいているかと思って、今日はおにぎりを握ってきたよ」
 笹の葉にていねいにくるまれたおにぎりを、ハクはチョコレートの箱の上にそっと乗せた。千尋はバランスをとるのに苦心した。
「ハ、ハク、ありがとう…」
「うん。今日も千尋の元気がでるように、まじないをかけて作ったんだ」
 清らかな微笑みを浮かべるハクに横から他二人が水を差す。
「ハク様のまじないがかかったおにぎりですか…」
「千、食べないほうがいいぞ。どんなまじないがかかってるかわかんないし」
「……そなたたちは一体私をなんだと思っているのだ?」
 ハクは堅物上司の顔になってカオナシたちを睨んだ。
「み、みんな、喧嘩はしないで。ね?」
 おろおろしながら千尋が仲裁に入り、三人組の顔に花が咲く。
「では千尋、今日は私とピクニックに行ってくれるね?」
「あっ、ハクだけずるいぞ!」
「ひどいですよ、抜け駆けなんて。それに千は僕とやらなきゃいけない仕事があるんですっ」
「ならばカオナシ、その仕事はそなただけに任せる」
「職権濫用ですか!」
 障子がかすかに開いて、リンが呆気に取られる千尋に耳打ちした。
「千…お前、愛されてんなあ」
「そうなのかなあ…」
 確かにそうなのかもしれない。けれど……
 嬉しいような疲れるような少し複雑な心境で、千尋は小さなため息をついた。
 





end.


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