月が満ち、奥方は女児を産んだ。
りんが自身の懐妊に気づいたのも彼女の出産とちょうど同じ頃だった。
――もし小娘の産む子が男児であったなら、たとえそれが卑しい血の混ざった子であったとしても、きっといつしか、わが娘の脅威となる。古今東西、家督を継ぐのは男ときまっているのだから。
そう危ぶんだ奥方は、身篭ったりんに一層つらくあたった。夕餉に毒薬を混ぜ、打掛に蠍や毒蛇を仕込み、毎夜人間の妊婦を苦しめる邪悪な願掛けをした。
――何がなんでも妾腹の子を流してやろうとした。しかし母体の衰弱をよそに、その子はしぶとかった。
やがて臨月が近付くと、殺生丸は昼夜を問わずりんの所へ入り浸るようになる。寵姫の衰弱の元凶が正妻と知ると、彼は彼女とその娘を訪れることを放棄したのだった。
悲しみと怒りに憑りつかれて、奥方は離れに火を放った。地獄の火の鳥が吐く、水では決して消えない妖の炎である。すべてを独り占めする憎らしい人間の娘の死に顔を想像して、奥方は狂気じみた笑い声を上げた。
そして焦がれた夫の爪に裂かれる我が身を思い、涙した。
破水した時には既に火が回っていて、逃げられる状態ではなかった。
りんは鉛のように重い上半身をもたげ、たった今脚の間に流れ出た赤黒い物体を震える手で抱き上げた。
臍の緒はとうにきれていて、羽根のように軽いからだは血を滴らせながらすんなりと母の腕におさまった。
産声はついにきかれることはなかった。――嬰児は既に事切れていた。
奥方に仕込まれた毒薬のせいか、その姿形は憐れなほどに醜悪だった。左右の眼球の大きさが著しく異なり、耳と鼻がとけ、手足は極端に短いうえに骨がなく、からだの至る所に点々と、くすんだ灰色の毛が生えている。
まるで犬と人の成り損ないのようだった。
その不気味な物体をみて、りんは嗚咽を零した。胸に抱き、愛しそうに頬を擦り寄せる――。
「かわいい子ね……」
彼女は嬰児を抱いたまま泣いた。共鳴するように炎が轟音を立て、館が軋んで叫びを上げた。
もうなにもいらないと思った。このまま燃え尽きて灰になってしまおうと決意した。醜くて愛しい子とみずからの感情を抱えたまま。跡形もなく消え去ってしまおう──。
「――りん!」
焼けて脆くなった襖を蹴破って、不意にそのひとは現れた。
業火のなか、素早く身を躍らせて駆け寄ってくる彼は出会ったあのころと同じ、美しく気高い姿のまま。
……最期に会えてよかった。
煙にまかれながらりんは、うっすらと笑った。
「……子供がうまれました」
既に息のない奇形の子を、なかば押し付けるようにして抱かせると、
「かわいいでしょう?……殺生丸さま」
――静かに禁句を口にした。
彼女の身体は瞬く間に崩れ去り、灰燼に帰した。見開かれた殺生丸の瞳のなかで、業火が一層激しく燃え立ち、白い産衣を焼きはらった。
業火から浮かび上がった魂は、鳥のように哀しい啼き声をあげながら、天井を突き抜けていった。非業の運命から離れ、彼からも逃れ、どこを目指して飛び立っていくというのだろう。
炎の中からは不死鳥が生まれるというが、あれもそうだろうか。──そうだったならよいのに。
殺生丸は死んだ子を抱いたまま、壮大な化け犬に転じた。
そして天井を突き破り、悲痛な慟哭をあげながら、いずこへと飛び立った愛しい啼鳥のあとを追いかけていく──。
以降、西国で異名を馳せた犬妖怪の姿を見た者は、いない。
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