白夜




「今日は晩ご飯はいらないって、かすみおねえちゃんに言っておいた」
 上がり框(かまち)に腰掛けておろしたての下駄を履いているあかねの、髪を結い上げて露わになった首筋にじっと魅入っていた乱馬は、不意に投げかけられた言葉に驚いて「えっ」と声を上擦らせた。
 あかねは浴衣の裾に気を配りながら立ち上がり、下駄の先をとんとんと地に打ち付けると、
「だってお祭りの屋台で食べてくるから、いらないでしょ?」
「あ、ああ…」
 なんだそういうことか。まぎらわしい。肩透かしをくらった気分で小さく嘆息した乱馬を彼女は首をひねって振り返り、団扇でそのゆるんだ口もとを隠しながらぼそりと呟いた。
「……あんた今、一瞬やらしいことを期待したでしょ」
「は!?し、してねーよ、馬鹿っ」
「ふーん?」
 ──ちなみに、お風呂もいいって言っておいたんだけどなあ。
 ささやくように言うあかねのやけに真っ直ぐな視線を受けながら、乱馬は顔を鬼灯のようにぱっと赤らめた。
 早く早く、と腕を引かれるかたちで外に出る。むわっと熱気が押し寄せ、たちまちつないだ手と背中に汗をかく。
 カナカナカナ、晩鐘の代わりのように、どこかで蜩(ひぐらし)が鳴いている。太陽はまだ完全に落ちてはおらず、空はほんのりと明るい。既に点された街灯が煌々と街路を照らし出している。
 なにを言ったらよいか分からず、頬を染めたまま黙っている彼の様子を窺うように、あかねが首を傾けた。まとめ髪に挿されたかんざしが、白と赤の小さな花々をこぼしながら微かに揺れた。
「ね……あたしを見て、乱馬」
 恥ずかしくて面を上げられず俯いていた彼は、頬に手を添えられて、弾かれたように彼女を見る。
「ちゃんと真っ直ぐ、あたしだけを見て」
「あ、かね」
「……他のものなんて見ないで」
 甘えるような声を出すあかねが、いつもの彼女とはまるで別人のように思えた。じゃあいったいこいつは誰なんだと目を凝らせば凝らすほどに、高級な人形のような容姿をしたその少女は、ただただ自分の見馴れた天道あかねその人なのだと実感するばかりで。彼女にもまだ自分の知らない顔があるのだと思うと、そのことがどうしようもなく歯がゆくて地団駄踏みたくなる。彼女の何もかも全てを知り尽くしてしまいたい、頭の先から爪先まで、目に見えるものも見えないものも全部。そう思うほどにより一層その深色の瞳に吸いこまれていく。


「花火が始まったみたいね」
 気づけば空はまだ白昼と見まごうほどに明るかった。日はとうに落ちたはずなのに。
 下駄の音を響かせ、蝶々型に結んだ兵児帯を揺らしながら、あかねが祭囃子の行列をめざして数歩駆け出す。そして、止まる。
「乱馬、今夜はね、あたし」
 みなまで言わせず、乱馬はその細い手首をつかむと、息もつけないほどに彼女を抱き締めた。
「──帰さない」
 明るすぎる夜に響く太鼓の音も、蜩の鳴き声も、もうなにも聞こえない。
「今夜は、絶対に帰さない」





end.


(【企画・乱あ乱祭2】へ寄稿)


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