彼が人間界(こちら)を去ってから四年が経った。世界は彼という人を失ってからも変わらずに回り続けている。
あの時十六だった私は明日、二十を迎えようとしている。
暫く訪れることのなかった偏境の地にある祖母の家で、私は十代最後の数日間を過ごした。都会の喧騒から離れたこの密やかな地は、私にとって始まりの地。遠い日にこの地で神隠しに遭い、霊視の力を得たことから、すべては始まったのだから。
──それは偶然か、はたまた必然か。彼のいない四年間、頭の片隅にはいつもその問い掛けがあった。この数日間も、そのことを思って瞑想に耽っているうちに時が流れた。
遠いあの日、私は神隠しに遭い、死の世界をさまよった。堕ちた死神にそそのかされ、遊園地の観覧車にでも乗るような気軽さで輪廻へと駆けていった。そんな私を救ってくれたのは、白髪に赤い花飾りをさした女死神。
彼女の導きの御陰で「黄泉帰った」私は、全てを忘れて健やかに長じ、かつて私の命を救ってくれた死神の孫に出逢った。無意識のうちに、まるであの日の恩に報いるかのように、私はあの死神の孫を助けるようになった。
深い縁(えにし)を感じるようになったのは、彼に対するほのかな想いを自覚した時から。そして、もしかすると向こうも同じ想いを抱いてくれているのかもしれない──そう思った矢先、別れは足音すら立てずに彼を奪っていった。
彼は在るべき世界へと帰っていってしまった。とある悪霊を地獄から救うため、摂理をゆがめる代わりに死神界と契約を交わした彼は、永久に人間界を去らなければならなくなった。
──別れを告げようと私を探していた彼から、私は逃げた。さようならは訊きたくなかった。
真夜中の黯然とした山道を、ガードレールに沿って歩く。腕時計の針は十一時半過ぎを指している。
十数年ぶりに目の前にひろがった裏山の入口は、口をぱっくりと開けて迷いびとを待ち受ける怪物のようだった。鬱蒼と繁茂した草木をひんやりとした暗闇が被っている。
「懐かしい…」
思わず独り言がこぼれ落ちた。森の内奥から発せられるこの世ならざるものの禍々しい気配にも、一度踏み込めば決して後戻りはできないだろう暗闇にも、不思議と恐怖を感じない。
一歩踏み出すと、パキッと足元で小枝が折れる音がした。視線を落とすと、黒塗りの下駄の爪先が視界を過ぎった。
「……なぜ、お前がここにいる」
懐かしい声が響いた。顔を上げると、目の前に螺旋状に歪んだ空間が広がっていた。その中から出ることのできない彼が、裏山の入口に立ちはだかるように佇んでいる。
驚きはなかった。私がここを訪れれば、必ず来てくれるとわかっていた。それでも声は感慨に打ち震えた。
「久しぶりだね…六道くん」
「質問に答えろ、真宮桜。なぜここへ来た」
挨拶もそぞろにそう問い掛ける声色は険しかった。
「この先には堕魔死神が彷徨いている。お前もよく知っているはずだ」
「うん、知ってる。知っててわざと来たの」
「……何?」
私は彼に向かって手を伸ばした。途端に顔面蒼白になった彼は、信じられないものを見る目付きで後ずさった。
「何を考えているんだ、真宮桜」
「六道くん。六道くんは神様でしょう?だったら私を『神隠し』してよ」
微笑みながらそう言った。とんでもないとばかりに彼は目を瞠り、首を何度も横に振った。
「馬鹿なことを言うな。そんなこと、出来るわけがないだろう」
「どうして?」
もう一歩踏み出した。血の気を失った顔はあの頃よりも引き締まって精悍さが増し、彼が少年時代をとうに脱してしまったことを物語っている。
「……とにかく、今すぐここを去れ、真宮桜。俺もここに長くはいられない」
急いた言葉じりに焦燥が伝わってきた。無理を言って彼を困らせる呵責に胸が痛んだ。それでも、思わず引き返しそうになった足を叱咤して踏みとどまる。
「どこにも行かない。だってもう…時間が、ないの」
意図せず涙声になったことに、自分で驚いた。ぎょっとした彼の顔が涙でにじむ。
「私、あと少しで二十歳になるの。大人になったらきっと、もう二度とそっちに行けない…」
彼の顔が曇った。現に私は、彼が去って以来、歳を重ねるごとに霊視の力を失いつつあった。今もこんなに近くにいるのに、彼の気配がとても遠く感じられる。
彼は拳を強く握り締めた。
「……わかっているのか、真宮桜。自分が何を言っているのか」
厳かに語り掛けながら、真摯な瞳で私を見詰める。
「お前がこの手を取れば、俺は…きっともう二度と、お前を放してやれない」
「…うん」
「この世界に帰りたいと言われても、きっと帰してやれない」
掌を見下ろして、彼は唇を噛んだ。木菟の羽音のような夜風が私に囁きかける。
──その男のために、この世界を捨てるというのか。お前にそれができるのか。
「私──」
言い淀む私に、幾つもの迷える魂を導いてきたその手を、彼は差し出した。
「……真宮桜。引き返すなら、今のうちだ」
秒針が進む。決断の時は目前に迫っていた。すべてを振り切るように、私は目を閉じた。
伸ばした手が温もりを掴んだ。一歩後ろでひしめく夜の世界に、肩を掴んで引き止められたような気がしたけれど、迷わずにもう一歩踏み出した。
──そして、引き返す道は永久に鎖された。
十数年前、あの森で神隠しに遭って、一週間もの間行方不明になった少女がいたという。
そしてその少女は、長じるとなぜかまたその地に戻って来て、ある日忽然と姿を消してしまった。
──一度神隠しに遭って異界をさまよい、神と縁を結んだものが、現世へ戻ってくることは二度とない。いつかまたその縁に手繰り寄せられるようにして、再び神の棲む世界へと「隠されて」しまうから。
そんな街談巷説がまことしやかに囁かれたが、それもいつしか時の流れと共に忘れ去られていった。
end.
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