「先輩」
 読書に耽っていた青年は、分厚い本からゆっくりと視線を上げ、なに、と囁くようにきく。
「先輩」
「……どうしたの?」
「速水先輩……」
 短く折り上げたチェックのスカートを握り締めて、ポニーテールの少女は俯く。だまっていてはなにも進まないでしょうと、勇気をだしてほんの少し顔を上げると、青年が頬杖をついて彼女をじっと見つめているので、頬をさっと染めながら、
「あの、な、なんの本を読んでらっしゃるんですか?」
 上擦った声で尋ねる。ああ、これ、と一瞬本に視線を落としたあと、彼は流れるような仕草で、癖のない艷やかな黒髪を耳にかけながら、
「これはね、おとぎ話だよ」
「──おとぎ話?速水先輩、おとぎ話なんて読むんですか?」
 彼は小さく頷いた。
 入学以来、つねに学年首位の座にあり続けてきたというこの人のことだから、さぞかし難解な本を読んでいるに違いないと思っていただけに、千尋は意外だった。
 速水と呼ばれた青年は、音をたてずに本を閉じて、その上で手を組みながら、
「とても懐かしくて、大切なおとぎ話なんだ」
「そうなんですか…それってどんなお話ですか?」
「気になる?」
 はい、もちろん、と千尋は照れかくしのように小さな声で言う。あなたが大切に思っているものは、なんだって気になります、と心の中でひそかに呟くけれど、口に出して伝える勇気はまだない。
「荻野さんも、こっちに来て一緒に読んでみる?」
 憧れの人に微笑みながら手招きされると、
「は……はい、ぜひっ」
 まさかの急展開に、少女は天にも昇る心持ちになりながら、何度も何度もうなずいた。
 速水はすっと立ち上がると、千尋のために隣の椅子を引いて、どうぞ、と彼女に着座を促した。好印象を狙っている様子はまったく感じられず、そうすることが当たり前とでもいうような、ごく自然な所作が本当に板についていた。
 やっぱり素敵な人だな、と千尋は思う。この人には、生まれついての紳士気質が備わっているのかもしれない。
「荻野さん」
 気付けばすぐ側で、速水が肩を揺らしてくすくすと笑っていた。今どき珍しいかむろ頭がさらさらと揺れる。
「そんなに見つめられると、顔に穴があくよ」
「……す、すみませんっ」
 うっかり端整な顔に見とれてしまい、千尋は慌てて視線を逸らそうとするが、そうする前に机上に置いていた手を握り締められて、驚きのあまりまたしてもその顔を凝視してしまう。
「せ、先輩?」
「千尋」
「……え?」
 千尋、とふたたび速水は彼女の名を呼んだ。
 青年は微笑んでいた。はっと胸が衝かれるような、優しい表情だった。
 千尋は、訳も分からずに息苦しくなって、胸を抑えた。閉塞感ではなかった。今の今まで、底の抜けた柄杓で必死にすくおうとしていたものが、突如として彼女の中に満ち始めたような気がしていた。
 それは意外ではなかった。本当は、いつかこうなる予感が、心のどこかにずっと前からあったような気がした。そう思うと、入学式のあの日、壇上で凛として祝辞を述べる彼を目にした瞬間、ひりつくような憧憬を覚えたことも、必然だったのかもしれない。
 触れた手からその心を読んだかのように、速水はゆっくりと頷き、
「──そろそろ、潮時だね」
 握り締めた千尋の手を、題名のない本の上にそっと置くと、そのうえに自分の手を重ね合わせた。
 本のなかから、いつかの風と水の音が聞こえてきた。
「千尋、いつかそなたが……私を見てくれるようになる時を待っていた」
 まるで、大事なまじないを唱えるかのように、彼は囁いた。



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